動物病院 豊島区 東京都 久山獣医科病院

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動物病院 東京都 久山獣医科病院

2014年4月22日午前5時 凹む凹む
 生まれて3ヶ月の子を、飼い主さんの元へきてまだ3週間の子を、まだ出会って半日の子を、救えませんでした。たった、1日にも満たない時間しか一緒に戦えなかった。朝会って、そして深夜にお別れです。

 これから楽しいことがたくさんあったはずなのに、おいしいものを食べられたのに、動物と一緒に暮らす幸福をもっともっと感じられたのに。

 たかが、たかがと言ったら間違いだけど、誤って食べてしまったものによって生命を奪われました。でも、元々発育が悪くなければ大丈夫だったかもしれない。もちろん、全く関係ないかもしれない。そうならないようにできなかったのか、悔しい想いがあります。

 じゃあ、食べたわんちゃんが悪かった?飼い主さんのせい?

 思いがけずテーブルの上の物を食べてしまった、少しくらい食べてしまっても大丈夫かと思った、発育の遅い子を一生懸命育ててきた、誰よりも大事に愛してきた、誰が責められますか?

 病状が重かった、難しい疾患だった、最初から勝算の乏しい戦いだった、手遅れだった。だけど何とかしたかった、何とかできる自信があった、何とか助けてあげられると思った。自信がある時は100%救ってきた。でもこれは自信じゃなく過信だった?自分が悪いのか?

 分かっています、こんなの愚痴なんです。だけど、だけどね、それが頭で分かっていても、心がこなしきれない時がある。

 僕はまだ、それをとことん考えて消化できるかもしれない、1つの仕事の結果でしかない、元々助かる子ではなかった全力を尽くしたから満足だ、お酒に逃げることが出来るかもしれない、今みたいに。だけど、亡くなった子はどうなんだろう、飼い主さんはどうすれば救われるのだろう。

2014年4月20日午前4時半 共生2
 前々回取り上げましたご質問の、続きです。

 質問:私が受けたセミナーでは、狼のリーダーーは、最初に食事をするわけでも常に威張って先頭を歩くわけでもなく、いつもは雌や子供を優先してあげる。ただ群れが危険な立場にあった時に群れを守る強さがある・・・家族の中の父母のような存在がリーダーであるとの説明を受けました。でも、それなら私が正しいと思ってきた躾、例えば食事は飼い主が食べてから、散歩は人がコースを決め前を歩く。というものは矛盾してくるのではと疑問を感じました。しかしその点だけを除けば、正しい方向へ導いてあげる「本当の意味でのリーダーであるべき」言われ、久山先生と同じことを言っていただいているのだと思います。

 久山先生の言われた通り、言葉の使い方で私自身誤解をしていたのかもしれません。確かに上下関係という言葉が強制的なイメージで、共生と上下関係は正反対のものだと感じていましたが、人はリーダーであり友人であり親である。そこはきっとセミナーでも伝えたかったことなのだと思います。先ほどの躾としては、人がいい意味でのリーダーになれるよう、今までのように食事は人が先・散歩は人が前ということでいいのでしょうか。

 回答

 このご質問は、とても意義のあるもので、しっかり勉強されていないと疑問にすら思わない部分でもあります。最近よくあるのは、講義で聞いたので鵜呑みにしてしまう、あるいはテキストとは違うから全否定してしまうというようなことです。せっかく勉強の機会を得る訳ですから、たとえ結果的に間違った情報であったり自分の役には立たないようなものであったとしても、一度飲み下し、吟味して取捨選択することで、自身は高まっていくわけですから、実は無駄なことなんてないわけです。これを繰り返すことで、見極める力や物事の考え方、理論的思考が出来上がります。

 すみません話がそれました。本来であれば、初めから文章でお答えしなければいけなかったのですが、難しい問題であり、ナイーブな事象ですので、細かいニュアンスが僕の筆力でお伝えできるか不安で、「お電話では?」と迷惑を顧みずお願いしてしまいました。また、このようなご質問をされる方とお話ししてみたかった、というのもあるかもしれません(笑)。結果的に、どのようにお話したらいいかなあと考える時間を頂けましたので、なら文章にしてみようと、できればいろいろな人にもお伝えしたいので書いてみた次第です。ご返信から察するに、僕の文章以上にご理解頂けたようで、ほっと心をなでおろしました。

 おっしゃる通り、表現の差があるだけで、言わんとしていることは同じです。先生の否定されている内容は、古い体質と理論の訓練であり、昔のしつけの理論です。これは、すでに日本の獣医学でも20年以上前に否定されているものであり、この否定は、むしろ現在のゴールドスタンダードです。ただ、それはここ数年の新しい考え方ではなく、すでに数十年前からある理論を熟成させているだけです。

 しかし、残念ながら古い理論のトレーナーや訓練師はいまだに多いのです。このゴールドスタンダードを理解している方も少ないのです。多分、その部分を否定されたいがために、極論でものをおっしゃっていると思います。
 
 ただ、ボスについての考え方は、誤った極論であると思います。いつ襲われるか、どんな危険があるか、テリトリーは守られているのか、天候の変化だって生命に関わる生活をする野生動物のリーダー論を、人とは比べられない環境で生きる狼のリーダー論を、今の人と犬の生活に当てはめるのは間違いです。ましてや、すでに犬は犬であって、狼ではありません。同じ理論で考えるなら、人の習性を語る時、昔は猿だったからと猿を手本にするでしょうか。

 さらに、『狼のリーダーは、最初に食事をするわけでも常に威張って先頭を歩くわけでもなく、いつもは雌や子供を優先してあげる。ただ群れが危険な立場にあった時に群れを守る強さがある・・・家族の中の父母のような存在がリーダー。』このリーダーシップは、あくまでもすでに出来上がったリーダーシップを言っています。これから作る立場のリーダー論ではありません。ここが大きな落とし穴です。

 リーダーシップは、突然生まれるものではなく、毎日の生活と習慣、本能で培われるものです。相手を認める第一のポイントは、やはり動物は力です。なぜなら、弱いリーダーに率いられる集団は、自滅するからです。そんなリーダーを認める訳がありません。では、リーダーが初めて生まれる時はどうするのか、頭をつき合せて話し合うでしょうか。、あるいは多数決?いえ、喧嘩をして力を見せるか、獲物をかって実力を見せるか、メスに気に入られるか(でもメスは、強いオスを選びますが)ですよね。

 こうやってできあがったリーダーに対して、生まれた時に自分より大人たちが認めるリーダーがいて、行動も実力も伴っていれば自然とリーダーと認めます。でもこれは、周りの評価と積み重ねた実績があるからです。でも、成長するにつれて自分の方が強かったら、リーダーが年とって弱ってきたら、結局は攻撃されて政権交代です。弱いリーダーは、全員の生命を奪うものだからです。
 
 あるいは群れに仲間入りした時、大抵は喧嘩になるか、初めから新入り君は下手に出ます。その後、生活をすることで、自分の位置を見極めていくわけです。で、リーダーと認められなかったら、弱ってきたら、新入り君の方がリーダーの器なら、やっぱり政権交代です。生命がかかることですから、情なんてものはありません。このように、突然「リーダー」なんて人も動物も認めません。

 先生の言葉を借りれば、リーダーになる時には、始まりは最初に食事をしていました、常に威張っていました、先頭を歩いていました。雌や子供を優先してあげるのは、群れに余裕があるからです。でも初めから、群れが危険な立場にあった時に群れを守ることはします。

 さらに、人と動物の関係は、異種であり習慣も本能も異なり、力も知識も違います。だから、お互いにいきなり「リーダー」なんて認められるわけがありません。この差を埋めていくために、人は正しい知識を得て、適切な飼育とトレーニングまたはしつけを行うわけですが、この時、動物がリーダーと認めなければ、これらはうまく機能しません。

 確かに、上下関係は普段の生活から学ぶものであって、ケンカや体罰で覚えるものではありません。人には知恵と知識があります。これを駆使すれば、力がなくともリーダーになれます。ただし、後に述べますが、動物の考え方を熟知しなければ、人を評価する方法を理解しなければ、これは不可能です。

 もしどうしても人が力を誇示しなければいけない場合、そのようなしつけやトレーニングが必要な場合、この原因は明確です。そのような事態に陥らせた、それまでのしつけやトレーニングが間違っていたからです。つまりそのような状況を作った人に責任があります。人と動物の関係が正しく行われていれば、力は必要ないのです。これも実はゴールドスタンダード、本来であれば常識です。

 動物は見て評価しています。例えば、あなたの生活態度、周りの方とのかかわり方も動物は見ています。犬との遊び方、接し方、抱き方、食事の与え方、言葉遣い、気持ち、リードの持ち方、トレーニングの内容と態度、留守にする時のお別れの仕方、出迎えのさせ方、叱り方・・・。人は自分で自分を貶めている訳です。なのに言うこと聞かないと、大きな声で叱り、絶対にやってはいけない体罰を行う。人が悪いのに。

 実際に、このような内容のセミナーや書籍、あるいは経験で、僕は20数年前に日本で勉強しており、何も新しいものではありません。そして、20年以上獣医師をやってきて、この理論が正しいことは実地に体験しています。が、啓蒙が上手くいっていないのは事実です。

 散歩は人がコントロール、できれば家から出る時も人が先、正しいです。でもこれには、リーダーシップという意味だけでなく、動物を守るという意味、守ってもらわなくてもいいからリラックスしてねという意味、もあります。犬が先に家から出る、散歩をコントロールする、これは犬が人を守る意味も感じてしまう可能性があります。

 食事は人が先、これも正しいです。狼の話で補足すると、獲物を獲ってきたリーダーの咥えている食事を、もぎ取る子なんて最初からいないですよね。なぜなら、野生動物は他のことでリーダーシップを発揮しているから。だから、食事の順序で威張る必要もない、関係ないのです。でも、犬はトレーニングできていなければ、人の持っている食事に飛びつきますよね、あるいはもぎ取ったり。狼だって、こんなことをされたらこれは許していません、秩序を守れないから。人がリーダーシップを示すのに何が必要か、これに則って行動すれば答えは明確になると思います。

 最後に、これは先生には失礼かもしれませんシ、あくまで私見を超えるものではありませんが、海外のまたは海外で勉強された先生は、講演やプレゼンでいかにインパクトを与えるか、ということが重要視される傾向があります。かなり「言い切る」内容が目立ちます。本来であれば補足が必要な内容だけれど、補足が足りなかったり、補足があってもそのインパクトの強さのみを重視するあまり、間違った解釈をする方が多いです。あるいは、真意を取り違えてしまうようなことも。

 中でも、動物行動学が重要視されたのはまだ歴史ガ浅く、社会的に認められるためにも強くなければいけない面も多く、研究者同士での切磋琢磨もあり、より先鋭的な内容が多くなる分野です。ただし、学究者どうしでの議論もまだ熟せされておらず、日々進歩している学問でもあります。

 実際に、僕もパピーケアなどの講習を受けに行き、あまりの内容に途中で退席したこともありますし、講習中に意見したこともあります。これは残念な経験です。すみませんうちわの話で。初めにも書いた通り、今まで通り、しっかりと考え行動されるという意識を続けて頂ければ大丈夫と思います。
 

2014年4月18日午前4時半 本
 最近本を読む時間が少なくなって。仕事?お酒?やんなきゃいけないことが多くて?時間があったらトレーニング?それはノーコメント。会議に出かける電車の中、お風呂、トイレ、今はこれが読書時間。

 久ぶりの本の感想文でも。今回読破したのは「密売人」、佐々木譲さんによる「北海道警シリーズ」の第5弾です。僕の好きな警察小説のこのシリーズは、警察組織の腐敗と並行して犯罪にに対決する警官を主人公にしています。1作目2作目の秀作に比べ、普通の警察小説になってきていると批判もされていますが、僕は気に入ってます。

 同時期に起きる関連性のない変死事件、この点と点の事件が線に繋がり、そしてそれは警察の違法にも繋がる。警察を、警官を信じて、誇りを持って犯罪者と戦う刑事が、でもその誇りをズタズタにされる警察の腐敗とも対峙する。確かに話がうますぎる部分は無きにしもだけれど、話に引き込まれるお話でした。

 主人公の信念とそれが故の悲哀、でもその姿勢を貫き通す。

 もちろん、ハードボイルドもミステリーも、群像劇も孤高のヒーローも、あるいは相次ぐ悲劇や窮地、罠や謎が謎を呼ぶ、なんて息をつかせぬ小説はもちろん面白いけど、重苦しい雰囲気をあえて作り出し、重厚感を醸し出し、それが名作、快作、なんて評価は気に入らない。

 何百ページも苦労して、最後の最後に数十ページで大団円、これも痛快だけどそこまでがきつくて苦しくて。なので時には、単純だ、予定調和だ、ご都合主義だと言われようと、徐々にないしはトントン拍子に解決に向かっていく、そんな爽快な作品が読みたくなる。

 D県警シリーズの横山秀夫さん(第三の時効、ルパンの消息、クライマーズハイ大好きです)、ハンチョウや隠蔽捜査シリーズの今野敏さん(同期、碓氷刑事も大好きです)、失踪課シリーズや鳴沢了シリーズの堂場瞬一さん(スポーツものも大好きです)などなど。テイストはもっと重いけど、ストロベリーナイトシリーズやジウの誉田哲也さん(早く新作を)、そしてもはや大御所新宿鮫シリーズや佐久間公シリーズの大沢在昌さん、名作百舌シリーズの逢坂剛さん・・・。

 ここで描かれる主人公は、全て芯が通っていてぶれないことが共通点。組織の論理やしがらみ、官僚主義にあえて立ち向かいながらも、自分の信念と正義を貫くこと。でも決して無敵ではなく、悩み、逡巡し、自問自答しながら戦っていく。そしてそれを支える心強い仲間たち。

 架空の話だけど、「ああ、想いは同じだよなあ」なんて同志を得た気分に浸ったり、いつの間にか引き込まれて一緒に戦ったり、憤ったり怒りが湧いたり、そして悲しんで笑って。

 自信と勇気をもらえる、そしてほっとする作品たちです。

 今週は腎臓の摘出が2件、来週は断脚手術、特にハードな日が続きますが、負けずに頑張ります。動物と飼い主さんの想いを無駄にしないように。<「ロングキス・グッドナイト」を流しながら>

2014年4月10日午前3時半 共生
 とても大事な、そして良いご質問がありました。ここで取り上げようと思います。

 質問:人と動物が共生するには「上下関係を確立する」とあります。私も動物専門学校でそのように習いずっとその意識でいましたが、先日参加したセミナーで、その考え方が古いものだと聞きました。今は上下関係ではなく共生。ヒトはボスになるのではなく、お父さん、お母さんのような役割になるとのこと。本や人によって考え方が違い戸惑っています。それにより、しつけ法、接し方も違ってくると思います。これから飼い主さん達に話をしていくにあたり、今までと変わらず「上下関係」というのを伝えていってよろしいでしょうか?

 回答

 まず初めにお話しなければいけないのは、受講されたセミナーでの理論がどの程度根拠があって、それが本当に今のゴールドスタンダードであるか、ということです。僕らが講演を行うときは、必ずゴールドスタンダードで述べること、そこに私見を入れる際はそれが私見であることを明示し、その理由や根拠を示し、証明をしなければいけません。

 また、それらの理論を自分に取り入れるならば、自分自身でそれらを検討し、熟考し、勉強したうえで信ずるに値するか、取り入れるべきか、考えなければいけません。それが、エビデンスというものです。

 今回語られた内容は、残念ながら現代の動物学のゴールドスタンダードではありません。僕が受講している訳ではないので、その理由や根拠が示されたかどうかも分かりませんが、その内容はいま世界で通用しているものではありません。もしかしたら、これから発展し、この理論が今後ゴールドスタンダードになる可能性はありますが、それは今の話ではなりません。

 であれば、我々は今の正解に基づき論じ、行動しなければいけません。動物に関わるプロフェッショナルになるためには、知識や技術だけでなく、このような考え方や意識を身に付けなければいけません。その点、いろいろと勉強されて疑問に思われた姿勢は、とても素晴らしいと思います。

 またもう一点。人や本によって考え方が違うのではなく、正しい考え方はひとつであるのに、しっかりと勉強し、正しく理解していないだけです。あるいは、先ほども述べました通り、理論と私見が混ざってしまっているだけだと思います。

 動物に対する考え方は、人が勝手に変えているもので、動物の本質は昔から変わりません。もちろん、人と生活することでいろいろな変化が表れていますが、大きく変わっている訳ではありません。とすれば、『その考え方が古いものだと聞きました。今は上下関係ではなく共生。』としているのは、人であって犬の本質が変化している訳ではありません。犬は今でも群れを作り、頼る相手を求めるもの、これは変わっていませんよね。だから、人と仲良くなれるのです。

 犬との共生は、新しい考え方ではなく、ずっと昔から言われ、考えられ、行われていることで新しい考え方ではありません。その中で、生活様式も習性も考え方も異なる動物が一緒に暮らすには、お互いを理解し、歩み寄らなければいけません。

 犬は、本来群れを成して生活する動物で、そのためにお互いに秩序を保つために順位が必要となります。しかし、これは犬の群れほどではないにしても、人にも必要です。ただし、犬がその力や強さで絶対的な順位を決めるのに対し、人の順位を決める手段は多種多様で、しかも絶対ではないものも多くあります。例えば、会議をするにしてもその場を仕切る人、あるいは議長が必要で、スポーツをする時にもリーダーシップを取るものが必要で、これも順位付けの1つの形です。人を尊敬する理由も、仕事ができる、スポーツが出来る、リーダーシップを持っている、ケンカが強い、面白い、楽しい、人柄が良い、人望がある、可愛いかっこいい・・・、たくさん理由があります。

 共生というのは馴れ合いではなく、お互いに責任と義務が生じ、その上で自由と楽しみがあります。ですから、これらには上下関係が必要なのです。

 ただ、誤解のないように申し上げると、元々上下関係は強制する服従でもなければ、苦しい服従ではありません。あくまで、お互いのルールにのっとって共生するには、お互いに守らなければいけないことがあるということです。人の間でも好き勝手なことは出来ません。そのルールを覚えてしまえば、お互いにギブ&テイクで暮らせることとなり、このルールをしっかりと守れるようになれば、出来上がる前にはつらくとも、その後の人生は幸福であるはずです。

 これらを履行するには、人か犬がリーダーにならなければなし得ません。これが、共生であり、上下関係です。ボスという言葉や上下関係という表現が、強制的なイメージを持つのかもしれませんが、元々犬に対して人の取るべき姿は、ボスであり、リーダーであり、友人であり、兄弟であり、父であり母です。

 時に家族でも、父がボスになったり、あるいは母がリーダーになります。親は、子供のために厳しい時もあれば、優しい時もあります。友人にもなれば、先輩にもなり、尊敬できる人にもなります。これが、共生における人の役目です。甘いばかりが子供を幸福にするだけではなく、厳しいだけで育つ訳でもありません。人でもそうですよね、甘やかされてばかりいたら、いつも叱られていたら、どうなるでしょう。

 ですから、父母であるという考え方は、決して新しい考え方ではありませんし、ボスにならないという意味でもありません。

 人でも共生が難しい、それ以上に異なる動物種である犬を人の生活に取り込むためには、残念ながら犬の好き勝手には行動させられません。その点は、動物を無理やり人の社会に取り込んだ人に責任があることですが、そのおかげで犬や猫は繁栄し、生活が豊かになり、長生きできるようになり、人と楽しく暮らす幸福を手に入れた、とも言えます。犬が望んでいたかどうかは分かりませんが。

 反対に、人は犬を理解するように努力し、出来るだけ犬に負担のない生活をしようと努力します。昔行われていたようなしつけやトレーニングは、すでに20年以上前に否定されています。これは、考え方が変わったのではなく、我々の無知や理解の不足がそのような方法を取ってしまっていた原因であり、これは今正されています。

 ただし、犬との共生には、リーダーシップが必要ということは不変です。現実に、正しくしつけやトレーニングを受けられていない子は、そのストレスが大きな負担となり、病気の原因となり、生命にも関わります。また、誤った人の過干渉も、同じ結果を生み、動物を苦しめるだけです。

2014年4月3日午前3時半 歌姫
 送別会が終わって、そして勤務最終日の「真の送別会」が終わって、深夜まで呑んだくれて、岡田さんと中山先生が退職されました。共に歩んでくれた2人は、自分の将来のために、あるいは新しい夢に向かって、さらに羽ばたいてくれることだと思います。まだ、お手伝いに来てもらうことがあるかと思いますので、実感がわきませんが、やっぱり寂しい。

 だけど新しいスタッフが増え、すでに病院は前に進んでいます。新しい体制で、今まで以上に良い病院にしないといけません。

 今日は、半年続けた個人トレーナーとのトレーニング、最後のセッションでした。これからは、自分1人で続けないといけません。身体を鍛える楽しみから体質が変わり、昔のように筋肉がついてくる快感を思い出し、健康とダイエットのためのトレーニングが少々違う方向に向かっておりますが、やっぱり楽しい。体重とウェストサイズが小さくなり、それ以上にお酒に強くなるというおまけも頂き、故に体重が落ちなくなるという問題もありますが、絶好調です!

 先月から、24時間営業のジムで教わったトレーニングを独りで始め、今日はトレーナーさんとのトレーニング後に、そちらのジムへジムのはしご。呑み屋のはしごは得意ですが、ジムのはしごもこれはなかなかハードだけれども、元気も倍増です。ここでも、トレーナーさんとのお別れですが、たまにセッションをお願いし、今では飲み友達になりましたので、そちらも継続です。

 お気に入りの舞台、「歌姫」を観てきました。これは、東京セレソンデラックスの名作で、TOKIOの長瀬君が主役でドラマ化もされていて、こちらも評価された作品。これを劇団EXILEが再演するというもの。面白くそして切ない名作がどう変化するのか、正直観に行くか行かないか、迷いに迷った舞台でした。

 やっぱり、EXILEの舞台ってどうなんだろうという疑心暗鬼、主役のMATSUさんのイメージが合わないという不満、俺の大好きな作品をどうしてくれんねんという憤り。ところがところが、食わず嫌いで、知りもしないで、勝手に決めつけんなよと叱られてもしょうがないくらいいい舞台でした。

 音楽は以前の舞台をほうふつとさせるもので、開演のベルと共にすでに涙ぐんでしまう自分。皆さんの名演と絶妙なキャスティング、そして新しい演出と、何度も何度も繰り返し観たことがある話なのに、知っているセリフなのに、号泣ですよ。是非皆さん、セレソンの舞台も、長瀬君のドラマも、DVDが発売されていますので、ぜひご覧になってください。土佐弁が心地良いです。

 そして、東京セレソンデラックスにて脚本演出主演をつとめた宅間さんのもう1つの名作、「夕」がサンシャイン劇場で今夏にリメイクされます。これも必見です。もうすぐチケット発売です。これも笑って、そして泣きます。九州の言葉がとっても心地よい。

 歌姫も、お互いが相手を思いやり、大切なもののために自分を犠牲にし、それでも幸福になろうというお話。やっぱり切ないお別れがテーマであり、この時期さらに身に沁みます。

 げにまっこと、「グッときたぜよ」これ、お気に入りのセリフです。<東京セレソンデラックス「歌姫」を流しながら>

2014年3月21日午前2時 副腎皮質機能亢進症(クッシング症候群)について
1、病態
 体内で副腎皮質ホルモン(特に糖質コルチコイド<コルチゾール>)が過剰に産生される疾患を副腎皮質機能亢進症(クッシング症候群)とよぶ。このうち、脳下垂体によるACTH(副腎皮質刺激ホル
モン)の過剰分泌によるものを下垂体依存性副腎皮質機能亢進症(PDH)、原発性副腎疾患によるコルチゾールの過剰分泌によるものを副腎性副腎皮質機能亢進症(ADH)と分類する。
 PDHは、副腎皮質機能亢進症の80%を占め、まれに原発性のフィードバック反応不全が認められるが、その90%以上が良性の下垂体腺腫による。下垂体腺腫は、巨大腺腫化しない限り著しい有害事
象を現さないが、神経症状を呈するような場合は脳腫瘍疾患として特に予後不良となる。
 ADHは、両側性の副腎腺腫または副腎腺癌によるが、症状や検査所見だけでなく、組織検査でも鑑別が難しく、浸潤や転移の有無によってなんとか鑑別されることが多い。

2、症状
〇 食欲増進、多食、多飲多尿、肥満、時に食欲不振
〇 筋委縮
〇 肝臓腫大
〇 腹囲膨満または腹部下垂(肥満、筋委縮、肝腫大)
〇 虚弱、パンティング、倦怠
〇 脱毛、皮膚の菲薄化・石灰化、面皰、難治性慢性膿皮症
〇 高血圧
〇 精巣萎縮、無発
〇 神経症状(行動の変化、問題行動、沈鬱、徘徊、ヘッドティルト、旋回、運動失調、失明、瞳孔不同、発作)

3、診断:病状が多岐にわたり、また生命に関わる重篤な症状となるため、確定診断だけでなく、随伴する疾患の病状や体調全てを診断し、把握する必要がある。また、その他の疾患を除外診
断しておくことも大切である。

1)典型的な症状から:皮膚(菲薄化、石灰化、脱毛、膿皮症など)
              肥満、腹部下垂、腹囲膨満、筋肉萎縮
         元気減退・消失、倦怠、沈鬱、傾眠 、虚脱
          食欲増進〜不振、多飲多尿
          軟便、下痢、嘔気、嘔吐、腹部不快

2)血液一般検査:随伴疾患に影響を受ける
            ◎多血、好酸球減少

3)血液化学検査:肝酵素上昇、脂質異常、高血糖、BUN/Cre低下、高リン
◎ALP高値、TG/TCHO高値

4)X線検査:脂肪過多、腹部下垂、腫瘍転移像
        肺石灰化、肺血栓症像、気管および気管支の石灰化
        ◎肝臓腫大、副腎腫大、副腎石灰化、骨質菲薄化

5)超音波検査:肝臓腫大、肝臓変性、胆嚢拡張、胆泥
          ◎副腎腫大、副腎変性

6)甲状腺検査:原発および二次性の機能低下

7)尿検査:結石
◎低比重尿、細菌尿、蛋白尿

8)確定診断:

@内因性ACTH(副腎皮質刺激ホルモン)濃度
正常20〜40pg/ml(時に〜80pg/ml)  脳下垂体から放出され、このホルモンにより副腎が 刺激を受け、コルチゾールなどの副腎皮質ホルモンを体内に分泌する。体内の副腎皮質ホルモン濃度
によりフィードバック機構が働き、脳下垂体からACTH分泌がコントロールされ、その結果副腎皮質ホルモンの分泌量は変化する。
そのため、ADHでは低下(<10〜20pg/?)し、 PDHでは高値(>40〜45pg/?)となることが示唆され、そのため副腎皮質機能亢進症の確定診断の一助となり、後に記載するACTH刺
激試験の結果と合わせて、原発部位が副腎であるか、脳下垂体であるかの鑑別が可能である。

AACTH刺激試験
合成のACTHを投与し、投与前と投与1時間後の血中コルチゾール(副腎皮質ホルモン)を測定する。体内の副腎皮質ホルモンは、日内変動があり、また体調や精神状態によりその分泌が左右さ
れるため、単純な血中濃度の測定ではなく、刺激試験が必要となる。コルチゾール基礎値の正常範囲は0.5〜4.0〜9.1?/?であり、ACTH刺激後の正常範囲は、
7.2〜16.3〜20?/?である。
すべての副腎皮質機能亢進症が診断できるわけではないが、高率で検出が可能であり、ACTH刺激後にコルチゾール値が正常範囲を超える場合に副腎皮質機能亢進症と診断され、コルチゾール値
の上昇が認められない場合に医原性副腎皮質機能亢進症と診断される。

B低用量デキサメサゾン抑制試験(場合によりプロゲステロン/17−ヒドロキシプロゲステロン測定)
@、Aにて確定診断がつかない場合、これらの検査が有用である。

CCT/MRI検査
  下垂体腺腫の診断に有効であるが、特にその大きさの判定や放射線療法の準備に有用である。 

4、治療
1)片側性の副腎の腫大・腫瘍が著しい場合は、外科的副腎全摘出手術が最善の方法である。しかし、全身麻酔管理および手術手技、術後管理、合併症などすべてに困難が伴う方法のため、また近年
では内科治療の発展に伴い、手術にて完治を目指すか、内科治療での維持を求めるか選択が難しい。副腎腫瘍は両側性の場合が多く、両側摘出術の場合は術後に副腎皮質機能低下症が永続し、こ
の管理も細かい判断と管理が必要であるため、やはり手術は厳しいことが多い。
ただし、副腎腫瘍が悪性腫瘍の場合は、手術が必須となる場合もあるが、副腎腫瘍の良悪の判定も難しい。

2)下垂体腫瘍は、良性であることが大半だが、巨大腺腫となった場合は重篤な神経症状を呈するため、放射線療法が効果的である。腫瘍の縮小により、神経症状が軽減ないしは快癒するが、どの程度の
縮小で反応が出るかは不明である。さらに、腫瘍の縮小によりACTH分泌が減少し、副腎皮質ホルモンの分泌も減少する可能性がある
が、ほとんどの場合は副腎皮質機能亢進症の内科治療は併用・継続する必要がある。
 放射線治療には、脳腫瘍に特化した放射線治療器が必須であり、さらに放射線治療のたびに全身麻酔が必要となるため、全身性の慢性疾患り患状態での麻酔管理も重要な要素となる。

3)内科治療
 あくまで、薬剤の効果にて副腎皮質ホルモンの分泌を抑制し、症状の軽減や緩和、消失を目指す治療であるため、導入治療と維持治療に分かれ、維持治療は永続の必要がある。致命的な疾患であるため、もちろん治療は必須であるが、症状が皆無あるいは軽度な場合、副作用の危険性と治療にかかる負担、しっかりとした管理などを考慮に入れて、治療を検討する必要がある。
 また、治療効果が高い場合、副腎皮質機能低下症を発症する可能性があるため、治療の精度がかなり高くなければならず、この点も理解と注意が必要である。

@ミトタン:副腎皮質を壊死・萎縮させることで効果を発揮する薬剤で、ADH/PDHともに著名に有効である。が、まれに致死的な副作用があり、第一選択の治療法ではなくなった。

AL-デプレニル:ドパミンの分泌を増加させ、そのドパミンにより下垂体からのACTH分泌を抑制し、PDHによる副腎皮質機能亢進症をコントロールする。ただし、この症例のわずか10〜20%にのみ有効
で、重症例や下垂体腫瘍の巨大化が認められる場合には選択するべきではない。また、現在日本では入手が難しい薬剤である。消化器症状や神経症状、行動異常に注意が必要。

Bケトコナゾール:副腎のステロイド合成を抑制することで効果を発揮し、ADH/PDHともに有効。副作用が少ない特徴があるが、有効例が少ないため、術前管理や長期治療、他の薬剤の反応性がない場
合に有効と考えられる。消化器症状と肝毒性に注意が必要。
用量:5mg/kg×bid×7ds 副作用がなければ10mg/kgまで増量可能
      症状と検査結果、副作用の有無により15〜20mg/kg×bidまで増量可能
検査:投与開始後2週間でACTH刺激試験を実施

Cトリロスタン:副腎のステロイド合成を抑制することで効果を発揮し、ADH/PDHともに有効。副作用が少なく、有効性が高いため、現在では第一選択の薬剤である。
用量:3〜6mg/kg×sidまたは体重<5kg;30mg、5〜20kg;60mg、>20kg;120mg
    初期投与は、1.5mg/kg×bidが日本では推奨されている。
検査:投与開始後7日でACTH刺激試験を実施(投薬後4〜6時間後)
評価:症状とACTH値、コルチゾール値、電解質値
     コルチゾール<2;減薬または一時休薬し、減薬して再投与〜7日後再度ACTH刺激試験
            10<;増薬〜7日後再度ACTH刺激試験
           2〜10;適量〜14日後再度ACTH刺激試験〜この後30日後再検査
症状の消失、副作用の有無、合併症の有無、その他の検査結果により60〜90日間隔の検査で維持
検査項目:ACTH刺激試験
90日ごとに血液一般・化学検査、X線検査、超音波検査
半年ごとにACTH濃度測定、副腎の超音波検査、(CT/MRI検査)

D合併症の治療:糖尿病、高血圧、心不全、肝機能障害、脂質異常症、感染症 、腎機能障害
           下垂体腫瘍

E副作用:ホルモン抑制による副腎皮質機能低下症(アジソン病)の発症に注意を要するが、この発現の予測は難しい。ほとんどは可逆性の反応だが、重度の場合は生命にかかわるばかりでなく、副腎融解にによる不可逆性の場合もまれに認められる。
  元々の症状と副作用の発現は鑑別が難しいが、元気消失、虚脱、倦怠、傾眠、食欲不振、消化器症状などが著しい場合は、必ず検査を実施する。身体検査所見では削痩や徐脈など、その他血液一般・化学検査(電解質異常、その他合併症)、ACTH濃度、ACTH刺激試験、X線検査は必ず実施する。
  休薬と副腎皮質ホルモン投与にて対処、場合により静脈内点滴など入院しての集中治療が必要となる。

2014年3月14日午前4時半 考え
夜、半分眠りながらいろんなことを考えます。大抵は、重病の子や高齢の子の治療のこと。それも良好な経過の子ではなく、いろいろ心配な子。ああじゃない、こうじゃない、自分の中に自分が何人もいて、議論します。何時間もかかって、いつの間にか夢うつつになって、その中では治療が上手くいって、眼が覚めると現実にがっかり、あるいは朝まで治療を続けたときのようにぐったり。

 原稿やHPの内容もこういう時にひらめいたりまとめたりします。でも、記憶にすべてが残らないこともあって、「あれえ、もっといい話だったのになあ」って悔しいことも。いや、これは思い込みかもしれませんが、もっと良い文章だったような。

 よく作家さんや科学者さんは、ひらめいたものを記録しようと枕元やトイレ、お風呂にメモ用紙を置いておくって。確かにこの3か所、集中できて、リラックスできて、そしていろいろ物事を考えてしまうところですね。

 でも枕元のメモは危ない。夜の思い付きって、時にストイック過ぎて、時に破たんしていて、まずい時もあります。朝あらためて読んで、鳥肌祟っちゃうみたいな。

 トイレとお風呂は、読書と思想の場です。自分の考えを整理したい時、すごく頭が回転する場になっています。意識したことなかったけど、そんなことを考えていたんだと、深層の想いが浮かび上がってきたり、考えが思わぬ方向に発展したり。映画好きなので、お風呂で観れるDVDプレイヤー購入したけど、絵が観えてしまうと考えは発展しない気がします。

 子供の頃は、野球の試合の前日は頭の中でよく1試合分シミュレーションしてました。これは、球技大会や体育祭でもやっていたかも。すべて、ポジティブな結果になるんだけど、これは性格かも。そういえば、シミュレーションじゃないけど、自分が架空のプロ野球の球団に入って、活躍する話を空想したりしてましたね。

 夜中考えると言えば、異性への告白やラブレター、うまくいかない友人関係の悩みでした。しかしこれは危険、夜中はやっぱり熱くストイックになりやすい。絶対に朝読み返しましょう、そして捨てましょう(笑)。告白を考えるときなんて、その場をいろんな場面でシミュレーションしてました。絶対にその通りにはならないのも分かっているのに、一種の安心材料にしていたんだと。

 となると、夜中に書くことの多いHPや原稿、メール、これもやばいのかも。

2014年3月5日午前4時半 オリンピック
 オリンピック選手は、結果を残せなかった時、謝罪しなければいけないのだろうか。あるいは、マスコミやファンに、責める権利があるんだろうか。すでに死語かもしれない「オリンピア精神」がもし残っているのだとしたら、「オリンピックに勝つことより、参加することに意義がある」となる訳だから、オリンピックでの成績はあくまでもおまけなんだから、気にすることはないし、ましてや謝罪する必要もありません。

 いや、アスリートなんだから、あるいは世界で戦う選ばれた選手なのだから、結果を求めるのが当然であるという考えもあると思うけど、でも謝ったり責められたりしなければいけないのだろうか。

 不十分な結果や失敗、背信、不甲斐ない姿は、すでに選手自分自身で自分を傷つけ、貶め、恥じ、罰しているはず。さらに、競技選手としての能力を世界的な舞台で酷評されたことになるし、もちろん競技の仲間や指導者、関係者などから叱咤激励あるだろう。これで十分なんじゃないかなあ。

 競技を楽しむなんて不謹慎、戦いに来ているんだから、勝つために来ているんだから。そんな批判もあるけれど、そんなのは、皆思ってあの場に向かうわけだから、当然そう思ってる。だけど、あえてそこで笑顔を見せるのは、リラックスしている態度を見せるのは、楽しみたいと抱負を語る意味は、戦う者なら、あるいは理解者なら、あるいは応援する気持ちがあるなら、分かるはず。だって、結果を求めない者が、ただ一人としてあの舞台に立てるわけがない。

 ある者は自分を鼓舞するため、ある者は弱さを克服するため、ある者は自らを追い詰め昇華させるために、ある者はプレッシャーに打ち勝つために、ある者は本気でそう思うことで力を発揮するために・・・、あえて「楽しむ」ことを主張する。涙より笑顔の方が力が出る、硬い表情より柔和な表情の方が力が入り過ぎない、怖い顔より真剣な顔の方が戦える。

 彼らが楽しむのは、僕らが思う快楽だけの楽しみではなく、真剣勝負ができることを楽しむ、結果を出すことへのプレッシャーも含めて楽しむ、一流選手たちとの息もつかせぬ戦いの場にいることを含めて楽しむ、ということだと思う。メジャーに言った選手が一概に口を揃えて「楽しい」と言うのも、逆に元ヤクルトの宮本選手のように「楽しいなんて思ったことない」と言うのも、根本は同じで、その場をどういう想いで戦うか、どう表現するか、その違いでしかないと思う。

 ましてや、いろいろな努力と犠牲、鍛錬のなかでオリンピックを目指してその結果あの舞台に立つのであれば、あの中で競技することに満足感と喜びを味わって当然だと思う。それでも十分じゃないかと。できれば次はオリンピックで勝つことを目指したいのは当たり前で、でもそれはなかなか叶うものではなく、それこそアスリートの強さと辛さではないかと思う。

 必ず日本の報道は、敗因を、戦犯を、美談や悲劇を、重箱の隅をつつくように探し回り、それを過剰な演出で報道し、誘導する。過度の期待と偏重した報道で選手を応援するどころか追いつめ、転じて評価や批評の前に批判でぶち壊す。

 その報道に左右され、一喜一憂し、自分の意見を持たないことも問題。そもそも、何のために応援するのだろうか。選手が好きだから?プレーが好みだから?スピリットを感じるから?優れているから?競技が好きだから?スポーツファンだから?知り合いだから?まさか、メダルを取れそうだから、なんてことはないでしょう。

 国費をもらっている、国の援助を仰いでいる、みんなの応援を受けている、国の代表である、確かにこれは一部の人の特権であり、自由にして良いことではないだろう。だけど、これらの助力は自身の技能の代償であり、勝ち得た権利でもあると思います。

 これらをどう受け止めているかは、態度だけ真摯であったり言動が真面目であれば、それで評価できるのでしょうか。そんな重さを感じないような人が、アスリートそれも世界の頂点を争うような究極の状況に身を置けるでしょうか。そんな甘い世界ではないですよね。彼らの態度や言動がどうあれ、厳しい環境の中で生きている彼らは身を以て感じているはず。それを我々が批判するのはおかしい。

 真央ちゃんのスペシャルプログラムでの演技、だれもが評価点ではなく、メダルではなく、ただ純粋にその演技に、心を揺さぶられ、彼女の強さと辛さを感じ、その決意を含めて感動したのではないでしょうか。マスコミも選手も関係者も観客もファンも、だから絶賛したんですよね。だったら、それはどの競技にも、どの選手にも同じであり、その姿も姿勢も含め評価しましょうよ。スポーツの持つ力は、その結果から生まれるものじゃない。

 入賞や金メダル以外を評価しないのも論外。だって、あの場で戦える栄誉だけでも素晴らしく、その中の数人に勝ち残る力は称賛に値する。メダルの色なんか、順位なんか、選手自身が考えればいい、反省すればいい、望めばいい。

 ありがとう、全選手にそう言いたい。そして、パラリンピックにも注目してほしい。

2014年2月25日午前12時半 エッセイスト
 やコラムニストになりたいなあと、高校時代に思っていたことがありました。自分の思ったことや好きなことを書いて暮らせたらなあ、もちろん高校生の浅はかな考えもなくはない。けど本当は、思ったことや好きなことが、他人の興味をひいたり、面白いと思われたり、もしかしたら少しは役に立ったり、奇蹟的に人生変えちゃったり、そんな大人になりたいと思ったからかもしれません。今でも本を書きたいと思う気持ちは強いのですが、それは小説や形のしっかりしたもので。あ、エッセイがしっかりしていないという意味ではありません。

 と、言いながら、実はエッセイやコラムはあんまり好きじゃない。特に高校生の頃なんて、すでに今の人格が出来上がった背伸びしっぱなしの僕は、超がつく食わず嫌いであり、人が褒めるものは全て嫌うという天邪鬼。井上ひさしさんや筒井康隆さん、若かりし糸井重里さんは受け入れても、それ以外の人は「なんで俺が知らないおっさんの意見聞かなきゃいけないの?」という意味不明の喧嘩腰。これは今でも続いていて、自己啓発本や著明な人の著作本など先ず見向きもしません。

 これはでも、自分の意見がぐらつきそうな怖さもあるような気がしないでもありませんが、その中で大好きだったのは「ヨーロッパ退屈日記」で出会った俳優や映画監督でも有名な伊丹十三さんと「アメリカン・タイム」で出会ったボブ・グリーン。一度はまるとマニアになる僕は、立て続けにその著作を読みまくりました。

 で、なぜこんな話が今日突然出てきたかというと、ひとつは土曜の深夜から突然高熱が出て、今日の午後まで寝込んでいたからです。あれ、説明になっていませんかね。僕は、寝ている間にいろいろと考える癖があって、自分でも有意識なのか無意識なのか、現実か夢か、眠っているのか起きているのか分からないんですが、とにかく考えてるんですね。で、結果的に病気になって寝込むと考える時間が長くなるということで、いろいろ考えているうちに「ああ、この考えてることを書いてみたらおもしろいかなあ」となって、「そういえば、昔はそういうこと思ってたよなあ」となって。

 眠りながら考えることは、多種多様。最近はやっぱり仕事のことですが、自分の考えや感じたことをまとめたり、思ってもみない発想があったり。子供の頃は、好きな子にどう告白するかとか、どうやれば喧嘩に勝てるかとか、野球の試合をシュミレートしたり、球技大会や運動会の予行をやったり、思考や感覚が研ぎ澄まされるような内容から、空想・妄想まで。翌朝起きてがっかりなことがほとんどですが、忘れちゃって悔しいものとか、良い出来の考えも。だから、突然朝起きて思い付きのように思われる意見が飛び出したり。この話、また別の機会に。

 よくあることですが、頭の中でグァーッといろいろ考えて、シュミレートして、系統立てて、結論を出すと、傍からみると突拍子もないことのように思われてこちらが驚いてしまうのですが、思いつきでも根拠のないことでもないのですが、なかなか理解して頂けません。

 そしてもう一つの理由は、昨年松山を訪れた時に念願の伊丹十三記念館に立ち寄れたこと、その空気がまさに伊丹さんを感じるような空間であったこと、そしてその際に購入した伊丹さんの本を読み返していること、これが大きいと思います。

 そして思いました。心がざわついたり、ほっこりしたり、凹んだり、浮き上がったり、少ない文字と行間にエッセイの良さはあるんですね。そんな真似事みたいなものも、書いてみたいと思いました。

2014年2月8日午前5時 深々と
 雪が降っています。でもまだ積もってはいないみたい。雪が降ると、被害とか迷惑とか、そういうことよりも嬉しくなってきます。ワクワクしてしまいます。火曜日は、緊急手術のために夕方の雪を一粒も観れずがっかり。もちろん手術は成功してニンマリ。

 でも実は、明日の午後から横浜の学会に行かなくてはいけなくて、結婚記念日も兼ねて家族連れで、でこの大雪はどうなるんだろう。おみえになる患者さんも心配で、無邪気に喜んでいる場合じゃないか!

 今晩は、12月から続いた緊急手術や重病の入院の子が、皆退院して入院室がポッカリ空いて。これまた嬉しい気分です。この寒さで体調を崩さないように、飼い主さんも動物たちも。

 静岡で、ご両親の離婚のために愛犬と離れなければいけないこととなり、里親さんを探している女子高生がいました。患者さんがネットを通して知り合った方で、他人事とは思えずお世話をして頂いていたとのこと。できれば、里親さんではなくて、一緒に暮らせる道を捜してほしかったのですが、残念ながらご両親の説得と理解は得られず、離れ離れになることが決まってしまいましたが、ひとまず、里親さんは見つかったそうです。ちょっぴり嬉しい報告。

 その飼い主さんから温かいメールを頂きました。充電完了!

 日本で一番笑えて泣ける舞台、東京セレソンデラックスをご存知ですか?今は解散してしまったけど、タクフェスジャパンと名を変えて、再度始動しております。昨年の「晩餐」はさらに笑えて泣ける作品でした。過去の作品がDVDになっています、ぜひ!ドラマ化された「歌姫」や「間違われちゃった男」、映画化された「くちづけ」、そして今夏に再演予定の「夕」、お勧めです。<「間違われちゃった男」を流しながら>

2014年2月5日午前3時半 気合
 僕が獣医師になってからずっと代々の子たちを診察している飼い主さん方がいます。いろいろな大病にも負けず、何度も何度もそしてずっとずっと頑張って頑張ってきた子たちの飼い主さんです。クリスマスを、お正月を、楽しく迎えることが出来て、でもお別れの時が来てしまいました。

 この20年間、毎日、毎週、毎月、お会いしていた方たちで、その方たちと突然お会いできなくなるって、今までも経験がありますが、特別感慨深い想いが生まれてきます。寂しい、というかなんかポッカリ穴が開くというか。この子たちから、この方たちから、そう皆さんから教えられ、育てられ、鍛えられ、楽しく、嬉しく、厳しく、悲しく・・・、獣医師として過ごし、今の僕があることを改めて感じます。

 不幸か幸福か、辛いか楽しいか、それは本人の心が決めることだと思います。だから僕は、嫌な方には物事を考えないようにしています。強くこう思ったのはいつからだろう、生命を預かる自分が強く、楽しく、厳しくいるべきであろうと、誓ったのは。これも患者さんたちから教わって、感じたことからさらに出来上がってきた自分かもしれません。

 天国と地獄には同じものがある。大きなお皿に、たくさんの御馳走がも売りつけられ、長いお箸が添えられている。天国では、そのお箸を使って、自分の向かい合う方の口に料理を運びます。そして次はまた別の方に、というようにお互いに気を遣い合い満ち足りています。地獄では、箸を奪い合い、料理を奪い合い、でも誰もごちそうを口にすることは出来ず、お互いを憎み罵り合っている。全て自分のありように関わっている。みんな、大きいお皿でおいしいドッグフードやキャットフードを仲良く食べているだろうなあ。

 身体に障害を持つ男の子が、自分が好きなスポーツ選手に抱かれた時、小さくか弱い彼は、強靭な身体を持つ選手の身を案じました。「重くないかな?」って。選手は涙をこらえることが出来なかったそうです。ふと顔を見ると、男の子の額には傷があったそうです。脚が不自由なためによく転ぶそうで、選手の「痛くなかったかい?」という問いに、「転んだ時の痛みで、もしかしたら脚が治るんじゃないか」って、いつも期待してしまうから大丈夫と答えたそうです。

 心の強さや豊かさは、何ものにも勝るものではなく、何ものにも代えられるものでもない。みんなとの別れは、自分の無力さを思い知るけれど、だからその経験でもっと今よりも強くなる。それが、僕のお悔やみの示し方であり、恩返しだと思います。

 負けを認めなければ、負けることはない。これは喧嘩の極意かもしれないけど、絶対に負けない。

2014年1月19日午前1時半 週1回の予定が
 昨年から更新が2週に1回のペースになってしまい、今年はと大晦日から年始に頑張りましたが、怒濤の正月が終わると、あらら更新が滞っておりました。最近どうも、ゆっくりものを考えないと、腰を落ち着けて書かないと、そう思ってしまうと更新が出来ません。え?そこまで考えてこの文章?と思われると恥ずかしいですが。

 毎年、12月は重症の子が多い、そして1月にお別れするお年の子が多い、と書いていますが、やはり悲しく寂しいお別れが続きました。皆さん、誉めこそすれ後悔の残る最期でも生涯でもありませんが、でもやっぱり悔しい。こんな想いを20年以上も感じていると、心が疲弊して、感情が枯渇して、と言われたりするけれど、全くそうはなりません。それは良いことなのだけれど、でも楽になりたい、そう思ってしまうこともあります。

 今日は早朝から運営に携わっている学会です。同じ意識と目標を持ち、かといって馴れ合いの無い同志と動いている学会です。そこに意を感じて、参加される先生が増えています。と思っていたけれど、今回の学会で全てお答えするために、前回の学会についてのアンケートや質問を読み直していると、感心するものや勉強になるもの、反省しなければいけないものいろいろあるけれど、実際には辟易してしまうものもあります。単純に、「何でこんなことに答えなきゃいけないのか、この労力は無駄じゃないか」心底投げ出したくなることがあります。

 日常の診療でも同じ想いをすることは多々ありますが、たぶん僕は飼い主さんたちに恵まれ、動物たちに恵まれ、そして理解して頂き、他の病院、他の獣医師に比べてそんな想いは少ない方だと思います。決して悪い意味ではなく、「お前ら獣医師より、よほどうちの飼い主さんたちの方が頑張っている、理解している」そう言ってやりたいことがたくさんあって。その中には、勘違いや思い違い、理解不足なものもあるけど、明らかにクレームのためのクレーム、文句のための文句があります。

 これらの対応に、時間を作って会合を開き、何時間もかけて討議し、また何時間もかけて対策を作る。こんな時、心は折れていきます、重くなっていきます。「ああ、診療に戻りたい」って。

 以前、行きつけのお店の板前さんの仕事を見て、心意気を感じて、恩師と話したことがあります。無駄な動きをしない、良く考える、先を読む、段取りをつける、気を配る、表情や会話から感じる、最善ではなく最高を目指す、プロ意識を持つ、優しさと強さを併せ持つ、相手の気持ちを慮る・・・。職人さんが普通にしていることは、我々生命を扱う者にも不可欠のものであり、普通にしていなければいけないこと、意識をしなくても行っているべきこと。なのに我々は、何をやっているんだろうと。

 理論と理屈を叩き込まれ、十分な教育を受け、良好な環境を整えて頂く中で難関を勝ち抜いてきたはずの我々は、決して恵まれているとは言えない板前修行に、全く敵わない。「何が足りないんだろう」と。いつも結論は1つ。

 心だよ、意識だよ、想いだよって。道徳と倫理というけれど、僕らが学ばなければいけないのは、理解してなければいけないのは、獣医師ないしは獣医学の道徳や倫理だけではなく、人としての、動物福祉の、飼い主さんの、生命の、道徳や倫理を会得していなければいけない。

 じゃあ、自分は出来ているのか?「できています」と答えたいけど、いくら自信過剰の僕でも、そこまでは傲慢にはなれない。この悩みから解放されたい、この問題を感じたくない、これは心底思う。

2014年1月1日午前4時 あけましておめでとうございます
 皆さん楽しい大晦日を過ごされていますか?僕はいつも通りの怒濤の大晦日ですが、なんとかカウントダウン3秒前の年内に済ませたい仕事は終わりました。

 午前中は診療、お昼から穴八幡神社と天祖神社にお札の授受とお参りに。もちろん、屋台で焼きそば、たこ焼、お好み焼き、ベビーカステラ、玄米パン・・・を買い込み。もつ煮込みと焼き鳥のテントの呑み屋さんに後ろ髪をひかれつつ、その後、例年通りお札をお届けする父の友人宅を経て、今年最後の銀行巡り。

 その後、伊勢屋さんで伸し餅とお団子を買い、年末の恒例行事は終了。仏壇と神棚をきれいにし、夕方と夜に診察を経て、お正月休み中の診療の準備。

 ここで紅白歌合戦が始まり、これを聴きながら雑用開始。間で井岡選手の防衛戦やら清原選手のライバル対決やらを眺めつつ、これは録画で我慢することに。で、最後の仕上げに入る頃、紅白歌合戦が終わり、カウントダウン3秒前に無事終了。

 さてここから気持ちはオフに。とげぬき地蔵に初詣、射的で景品を獲得し、これまた屋台や呑み屋さんに後ろ髪をひかれつつ、緑茶ハイとつまみを買い込んで、家呑みの開始です。これ我が家の恒例行事で、NHKのさだまさしさんのトーク番組「今夜も生さだ」を観ながら新年を感じます。

 僕は、姉の影響で小学生時代からさだまさしさんの大ファン。彼の絶妙の間とトーク、そして秀逸なメロディと歌詞、素晴らしいです。番組の最後に「風に立つライオン」を唄われました。この歌は、アフリカで活躍する日本人医師をモチーフにした歌で、小説にもなっています。

 「やはり僕たちの国は残念だけれど何か 大切な処で道を間違えたようですね」「診療所に集まる人々は病気だけれど 少なくとも心は僕より健康なのですよ 僕はやはり来てよかったと思っています 辛くないと言えば嘘になるけど しあわせです」

 「あなたや日本を捨てた訳ではなく 僕は「現在(いま)」を生きることに思い上がりたくないのです」「空を切り裂いて落下する滝のように 僕はよどみない生命(いのち)を生きたい」「キリマンジャロの白い雪 それを支える紺碧の空 僕は風に向かって立つライオンでありたい」

 詩だけでも心が震える歌ですが、ここにメロディと彼の叙情豊かな声が加わると、涙もろくなった最近の僕は耐えられません。新年早々、泣きました。

 歌、演奏、芝居、絵、写真・・・、いろいろな表現がありますが、全てに共通なのは一瞬で心持が変わり、意識が変わり、力をもらえること。さあ、心新たに今年も頑張る、さださんから力をもらいました。

2013年12月31日午前3時 無事
 原稿の締め切り、間に合いました。もしかしたら、締め切りを守ったのは初めてかも(笑)。10日間徹夜18時間ぶっ続けの突貫作業(自慢になりません、放置してきた自分が悪い)とクリスマスの連休フルに活用させて頂きました。ご協力頂きました家族とスタッフ、そしてイラストを描いてくれた奥さん、ありがとうございました。

 さて、今年もあと1日となり、今日は診療後にスタッフと打ち上げでした。いつものお寿司屋さんが今年は1日早くお正月休みで、毎年恒例のガラスケース内の魚を食べつくすことは出来ませんでしたが、焼肉屋さんの肉と焼酎とマッコリと、たらふく頂きました。

 実際には、原稿という言い訳のために雑用がたまっていて、これをやらなきゃいけないのですが、今晩はほろ酔い気分で放っておきます!多分、良い小人が夜中に片付けてくれているはず(笑)。

 毎年言ってますが、12月は重症の子が多くて、今も2人入院治療をしています。出来ればお正月は自宅で過ごしてほしい、なんとか退院させてあげたいけど、無理はさせられないし。

 皆さん、1年間お疲れ様でした。病気に負けず、気持ちに負けず、今貴方の傍らでゆっくりしている犬ちゃん、猫ちゃんの幸福そうな顔は、皆さんのお力の賜物です。病気は頑張っちゃいけないけど、でも頑張らないと病気は治りません。だから頑張って、みんないっよに幸福になりましょう<「歌姫」を流しながら>

 

 

2013年12月30日午後10時 第21回ご報告 募金ありがとうございました
 被災動物救援支援募金にご協力ありがとうございます。早く現地にて役立てて頂くために、12月31日付で21回目の寄付を行わせて頂きました。
 皆様には、快く募金をお引き受け頂き、心よりお礼申し上げます。
 
寄付団体:日本動物病院福祉協会(JAHA)
(寄付実施が早い団体を選びました。)

金額:11.841円(19回合計528.062円)

被災動物義援金:受付終了(計当院より80.000)

今後とも、よろしくお願い致します。

「一緒に頑張る、一緒に生きる。」

2013年12月17日午前1時半 悲鳴
 いやあ、困りました。忙しさにかまけていて、相次ぐ忘年会に、そして早々と下書きが終わっていた慢心から、お願いされていた原稿の締め切りが・・・、あと10日です。いやあ、窮地です!

 しかも、この独り言の更新も2週間以上手つかずで。こんなに更新しなかったのは初めてだ。まこれは、超大作の(自分なりに)自主規制について2回連続で書いてしまって、気が抜けたから。

 で、今原稿を書くのをやめてこの更新をしているのは、現実逃避です!!

 えー、ご報告と言えば、9月の半ばから体質改善と筋力(代謝)アップ、ダイエットと検査値改善を目指し、トレーニングと食事の糖質制限を始めました。長年続けていたビリー体調の下を離れ、筋肉をつけてエネルギーを消費する方式に変更。この3ヶ月、米は数回しか食べておらず、そばやラーメンなどの麺類も、お好み焼きやもんじゃ焼きも、ピサやパスダも、全く食べていません。お菓子もアイスも同様。ビールも日本酒も、と言いたいところですが日本酒は何度か破ったかな。おかげで筋肉はかなりバージョンアップ、ベンチプレス65kg、スクワットは110kgまでOKになりました。

 肉と魚、プロテインは取り放題、豆腐や納豆、野菜を食べて、焼酎を飲んで生きております。で、体調が絶好調、おまけに酒がさらに強くなって(思わぬ副作用?)。学生時代からみると30kgは増えてましたから、体重はまだまだですが、多分筋肉は人生史上最高も状態かも。と、少々トレーニングにはまっております。<「THE MANZAI」を流しながら>

 

2013年11月29日午前2時 続き
 以前からも言っているけど、自主規制って大っ嫌い。もちろん、正当な自主規制〜いわゆる悪質な製品や事件、事故、発言、表現、社会問題の原因になる物や事に対する〜は必要です。僕の言う自主規制は、元々悪質な意味も意思もない表現が、一部のマスコミや表現の分野、あるいは人の行動や常識であろうと思われることにおいて集団発作的に行われるもです。ある一部の人が感じた事象や基準により、これから先起こるであろうバッシングや批判に対して、自身の正当性を訴えたり、相手の論拠の誤りを指摘し戦うことを放棄し、先回りしてものを考えたり、事なかれによるものなど、たいていは、先に規制しておけば問題にならないだろうとか、批判を何とかやり過ごせるだろうと行われるものです。決して、規制することによって助かったり傷つかない人や事のためではない。あくまで、自分たちが助かるだろうって話。だから気に入らない。

 例えば、原作の小説や漫画から映像化される時、なぜ書籍では許され、問題とされていなかったものに事前に余計な対処をするのか理解できない。多分、目に触れる人たちが広がった時、どんなリアクションがあるか不安だからがその理由。でも本当は、表現というのは問題提議や変えてはいけない本質がある訳で、受け止める側に考え感じさせる遊びが必要で、そこを変えてまで表現する意味があるのか分からない。あるいは、その勇気を持てないのであれば表現者になるべきではないと思う。

 例えば、放送禁止となる楽曲や出版時に改編され出版を差し止められる書籍。その歌詞や言葉に元々の悪い意味がなくても、作者の真意を感じず、文脈と文意を考えず、ただ感じたことや表面的に気付いたことで規制を加えていく。

 自主規制には、法律はなく、基準もない。あいまいで、感覚で、そして偽善でしかない基準があるのみ。厳しく言えば、自主検閲でしかなく、何度も言うがそこにはあるのは、規制をしないと傷つく者や物、事象に対しての気遣いはなく、事なかれや自己保身である。

 例えば、震災後にテレビ局がCMや番組内容に気を遣い始めた。もちろん哀悼の意を表すために行うことに反対はしないけれど、過度の気遣いが果たして役に立つのだろうか。実際に普段から震災のことを意識する訳でもなく、これって、気にするところがずれてやしないだろうか。震災の時に被災地の方たちに悪いって娯楽を減らす人たちがいた。これもどうなんだろう、ただの自己満足に過ぎなかったような気がする。

 例えば、何か犯罪や問題が起こった時、似たテレビ番組や映画、出版物などがあると必ず問題として取り上げる。多分、もっともらしい理由や原因を作りたのだろうけど、そんな単純なものではないし、そんなものだけで事件が起こる訳がない。しかもこれらの論調に反論せず、表現や販売、出版を自ら規制してしまう。
 
 もちろん、信念を持って規制が必要とするのならば規制をするべきであるが、信念を通すことを恐れ、その信念を簡単に捻じ曲げて規制してしまうことはどうか。信念があって、根拠があるならば、正当であると自信があるならば、表現をするべきと考えるならば、例え後で叱られることがあっても、謝罪が必要であっても、表現する勇気も必要ではないだろうか。

 このような表現で一番問題になるのは、いじめや差別を感じる表現や発言、行動です。放送禁止用語や出版物の規制、表現の制限など、一部の悪質かつ軽挙妄動を除けば、元々のその言葉や内容には、そのような差別の意味はないことが多い。その言葉や内容をどのように受け止め理解するかは、受け止める側の性格や理念、感情、感覚、気分、環境、境遇・・・、いろいろな影響があります。また、発信の言い方や書き方、ニュアンス、シチュエーション、タイミング、キャラクター・・・、これらも要因です。

 でも、これらの条件は昔から同じはずで、しかもこのような表現は、危うい部分も含めてどのように感じてもらうかも含めて、芸術であり芸事なはず。曖昧さが良さの1つとなるはずです。

 じゃあ今なんで、こんなに自主規制や批判やバッシングが多いのか。1つは、受け取る側の聞き取り、読み取り、感じ取る能力が低下していると思います。合わせて、分かっていながらわざと曲解したり、捻じ曲げたり、揚げ足を取ったり、悪意の解釈をする人が多すぎる。そしてその扇動にまんまと乗ってしまうことも。

 また、規制する側も糾弾する側も、公平性に欠け、深謀遠慮がなく、考えが足りず浅はかであったり、表面的にしかものを見ず本質をついてなかったり、信頼も根拠もない情報や風聞に迷わされたり。そして、安易に、責任を持つ姿勢もなく言葉や文章、表現を世間にさらしてしまう。

 もちろん、表現が未熟であったり、簡単に人の目に触れさせてしまう現状は、悪意の人に受け手に対してより危険になっています。さらに、不特定多数を相手にした場合、受け取られ方を考慮すると、発言にも文書にも表現にも、全てに対応することは不可能で、責任を持つ難しさが元々あります。確実に、誰にでも問題なく表現しようとすると(例えば、メールでの診療相談には、いろいろなことを想定してお答えするので、実は数時間かかって1つの答えを返信してるんです)、時間がかかるばかりでなく、面白味も個性もなくなり、平坦なものになってしまいがちです。せめて、誤解されないように心がけることは最低限として、でも自由な発想と意見は続けたいところです。

 また、媒体にも差があると思いますが、ライブや記録、言葉、文書、画像、映像、消えるもの、残るもの、何度も見返し聞き返すもの・・・、でもそれぞれで表現の仕方は変えても、表現の内容は変えられない。

 例えば、報道の義務と自由を声高に叫ぶマスコミは、権力や自身の利益には甘く、世論や購買層の意識に右往左往しつつ嘘の世論すら作り上げ、時には誘導してしまう。報道の自由と言いつつ自主規制を盛んに行い、人や物を安易に評価し、掌を返したように批判し、公平な感覚も失い、尊大な態度で時には裁きまで加える。そこには、マスコミの神聖も誇りもなく、責任も義務も果たしていない。

 自主規制とは、本来はその受け手が感じて、声を挙げ手を挙げ、あるいは周囲がその想いを察して、決めていくことだと思います。その根拠は、相手に敬意を表し、相手を慮ることです。

 関係ない者までが勝手に感じて、当事者の想いとは全く関係なく声高に意見してしまう。そこには、本当の正義も善意も存在しないのに、平衡感覚を持たず、公平性の欠如に気付かずに自己満足の正義感を振りかざし、善意の行動と思っている。そして実はこれこそ、いじめや差別意識をむしろ作り上げている危険な行為でしかない。

 何度も言うが、たいした危険じゃない物まで前もって回避して事なかれを行うことは、正当性が歪曲され、成長も進捗も生みません。

2013年11月16日午前3時 命日
 坂本龍馬の命日の夜を、いつも通り坂本龍馬の作品を観ながら、ゆっくり呑みながら、過ごしています。毎年想うのは、この1年何が出来たんだろうか、ということ。反省して、後悔して、あるいは納得して、決意を新たにして。

 そしていつも想うのは、自分の立ち位置で、自分のやるべきことを、自分らしく、愚直にやろうということ。

 そして、彼の言葉を思いだす。「人が世に生を得るは事を成すにあり」そして「世の人は 我を何とも言わば言え 我が成すことは我のみぞ知る」

 今年は、一緒に襲撃を受けて、17日に亡くなった中岡慎太郎の言葉も紹介します。「志とは 目先の貴賤で動かされるようなものではない 今 賤しいと思えるものが明日は貴いかもしれない 君子となるか小人となるかは家柄の中にはない 君 自らの中にある」

 龍馬の師である勝海舟の言葉も。「行いは己のもの。批判は他人のもの。知ったことではない。」

 彼らも今でこそ偉人と評価を受けていますが、自分たちではそんなつもりもなかったですし、当時にそう思っていたこともありません。彼らもまた、普通の子供であり、若者であり、大人であったと思います。また、その心境は、意識を高く持つからこそ、孤独であったと思います。だから、こういう言葉を吐くことで、自らを鼓舞し、追い込み、奮い立たせていたんだと思います。だから僕も好き勝手やってやる、っていう言い訳にしてます(笑)。

 で今日は、1つ思いきろうと思って。今まで書きたくて書き溜めていたこと。表現の自由や自主規制、そして結果的にもたらされる差別について。不快に思われる方もあろうかもしれませんが、あまり語られないことを書いてみたい。

 ずっと思っていたことが、今日をきっかけにというだけではなくて、最近再度観返した舞台のDVDに、読み返した小説に、触発されたのかもしれません。すごく長くなるので、何度かに分けて書いていこうと思います。そして今回は、そのきっかけになった舞台と小説の話を。

 僕の想いは昔からのもので、そしてこの作者や作家と想いがシンクロして、とても高揚し、勇気をもらいました。だから今日書く作家や作者の言いたいことを書いた文章と次回以降の僕の考えを書いた文章は、すごく似ているかもしれません。でもこれは、この舞台や小説に出会う前に、時間も時期も全く異なる時に思ったことで書いたことです。決して、作者や作家の模倣ではありませんし、責任は僕にあります。でも、今加筆訂正している僕は、明らかにこれらの作品の影響は受けている訳で。

 僕が好きな舞台で、東京セレソンデラックスの「くちづけ」という作品があります。先日、竹中直人さんと貫地谷しほりさんで映画化もされました。知的障がい者を支援するグループホームが舞台となる作品で、そこで暮らす人々の姿が描かれ、すっごく楽しく、そして切なく哀しいお話です。

 この作品の原案・脚本・演出をされた俳優の宅間さんは、まず障がいを持つ方を、そのご家族や友人、関係のある方を傷つけるのではないかと心配されたそうです。さらに、クレームや批判、いろいろな噴出する問題を覚悟されたそうです。周りからも、勇気を讃えられ、慰められたそうです。

 結果的に、そのような問題は全く起きなかったそうです。そして、むしろ喜んで頂けることが多かったことを嬉しく思ったそうです。彼がこの話を書こうと思ったきっかけは、新聞に載った十数行の記事からだそうです。それは、知的障がいを持つ子供と親の悲劇。そして、知的障がいを持つ方たちと交流することによって、なぜヨーロッパでは彼らが「天使の子」と呼ばれるかを心底理解されたそうです。そして、いろいろな問題が放置されていることを。

 これらを「知らなかった」ことこそ、罪ではないかと彼は書いています。そして、我々が勝手にアンタッチャブルにし、触れてはいけないこととし、目隠しをしているだけだと。そしてこれこそ、彼らを傷つける原因だと。僕は、もっと僕らの罪が重いと思いました。人間がひねくれているので、「知らない振り」であり、見えない振り、触れたくない、目隠しを取りたくない、そういう意思を感じてしまいます。

 自主規制は自己保身と僕は断じますが、傷つきたくない自分を、考えたくない自分を、感じたくない自分を、意識しない自分を他者に押し付ける行為にもなり、「知らない」罪をも作る、こう新しく感じました。社会自体を変えてしまいかねない危険なことであると。

 図書館戦争という小説。作者は意図的にこの小説の題材の中に、いろいろな主張や批評批判を散りばめています。そして特に、差別を生む表現の規制を描いています。

 ひとつは、聴覚障害を持つ方の話。主人公に敵対するある団体が、主人公を陥れるために友人関係にある障がいを持つ方を利用し、主人公がその方を貶めていると告発します。実際には、聴覚障害を区別し、健常ではないと差別し、弱者と見なしているのはむしろこの告発した団体であると明るみに出る。

 障がいを持つ方たちを、弱者であったり、保護が必要な対象であると勝手に決めつける、善意の申し出のようにみえて、実は差別であるという意味。

 もうひとつは、日本でテロが起こったらという題材の作品を執筆した作家が、その内容を模倣した事件が起こるに当たり、当然のように作品の執筆を制限されてしまうという話。第三者が勝手にこの内容の思想や表現を危険と決めつけ、判断することでいわゆる表現の自由が奪われ規制されてしまう。

 『表現の自由や公序良俗、メディアのあり方など難しい部分』であり、むしろアンタッチャブルと作者も話しており、この作品はもちろん極端な表現になっていますが、実際には「その言葉はだめ」とか「この表現はおかしい」というような、指摘や指導という形に隠されている出版界の自主規制は存在しています。そして同様にメディアでの放送禁止用語や放送禁止の楽曲などにも。

 もうひとつは、「床屋」という言葉が、当事者も就業者もそのような想いも感情もないのに、知らない間に差別用語として使ってはいけないとされてしまっている話。当事者が誇りや愛着を持って「床屋」を名乗り仕事をしているのに、無関係な第三者が勝手に不快な言葉と思い、差別や不当な表現だと訴えることで、このような規制が起こってしまう。特に恐ろしいのは、この訴えが善意で発したものだと信じられていること、そして、これらの言葉には元々そのような意味すらないのに、辞書にも記載されていないのに、断定されてしまうこと。時に善意は悪意よりも怖い。

 作者は言う。『取り締まることで、如何わしい言葉だという意味を後付けでその言葉に乗せてしまう。無理やり差別の構造を作ろうとしている』。このような考えに至る理由は、『誰かに要求されている訳ではないが、指摘された時に困るから、指摘や批判を受けないようにしておこう、逃げとか防御を働かせてしまう』ことが原因だと指摘する。その結果、目に見える規制がなくとも、『ここまで書いたら危ないから、ここでやめておこう』表現者がこう思ってしまうことが少しでもあれば、これこそ表現の自由は無くなってしまうのではないでしょうか。

 『自分の意見は言わない方がお利口さん、だったら想像だけしてやめてしまう。世の中には、いろいろな規制が、大小ところ構わず縦横無尽に働いている』これに再度気付かされます。

2013年11月9日午前2時半 手紙
 飼い主さんから同時に、別々の方から3通もお手紙を頂きました。お一人は、他院での外科手術をお手伝いさせて頂いた方、お一人は初めて当院で診療をさせて頂いた方、そしてお一人は急患で緊急手術を行おうとしていた中、救急救命処置を行い、残念ながら亡くなられた方。経過も順調で

 手術をお手伝いさせて頂いた方は、その後の経過も順調で、嬉しいご報告でした。何より嬉しかったのは、悩んだ末に高齢で手術をご決断されて、そのご決断にお役に立てたこと。そして、当院のOBの主治医をとても信頼して頂けたこと、その先生を輩出したことへの感謝のお言葉。

 初めて診療させて頂いた方は、今までここまで丁寧に診療を受けたことが無いこと、そして信頼できる先生が見つかって嬉しいというお言葉を頂きました。何より嬉しかったのは、ご自身のお医者さんでも同じように丁寧に診て頂ける先生がいたら、というお言葉。

 亡くなられた方からは、最期まで全力で手を尽くさせて頂いたことへの感謝のお言葉を頂きました。手術に至らなかったこと、助けられなかったこと、この悔いは大きなものですが、その中でわずかでも良かったことは、本気で助けようと全力を尽くしたことでしょうか。傷心の飼い主さんに、助けるべき方にむしろ救われた想い、まだまだ未熟です。

 自分が褒められるよりも、スタッフやOBが褒められることが嬉しく、普段自分の進んでいる道が正しいことを実感させて頂けます。そして何より、誇らしい。

 私の主治医になってほしいくらいという、過分な評価により、遣り甲斐と自信を持てます。

 至らなかった自分をご評価頂ける事が、信念を持って仕事をやり遂げる糧になります。

 日頃、研究や論文により広く人を教育し、獣医学の発展に尽力するよりも、目の前の診療や個々の教育にしか興味のない自分に、時には迷うこともありながら、でも自分の元にいる者や巣立った者が評価を受けた時、獣医師冥利に尽きる瞬間であり、ぶれない自分を作れる根拠にもなります。

 人にはそれぞれ役割があり、天分があり、使命があると思います。僕は、結果的に何万の動物を救うような業績よりも、目の前の動物と飼い主さんを救うことに尽くしたい。何百という獣医師や看護師に啓蒙するよりも、目の前の一人一人をしっかりと育てたい。

 いや、育てるなんておこがましい。人は、自分で育つものであって、他人が育てるものではない。自分で学ぶのであって、他人が教えるものではない。ただ僕ができることは、自分の姿勢を見せること、意識を伝えること、揺らがない信念を知らしめること、そして凄みを熱さを感じさせること。古いかもしれないけど、僕には背中を見せることくらいしかできない。でもその背中は、大きく、広く、厚く、熱く、優しく、厳しく、強く、真っ直ぐでなければいけない。<東京セレソンデラックス公演「流れ星」を流しながら> 

2013年11月2日午前5時半 誤表記ではなく、偽装でしょ
 今回のホテルの騒動、その記者会見にすごく違和感を感じます。作為的でないことや現場の従業員のミスであることを強調するばかりで、聴いていると開き直りと責任逃れ、顧客への誠意も謝罪も感じられず、会社や社員を守るためでもなく、自己保身とその場しのぎでしかない。せめて、社員を、会社を守るくらいの気概が見たかった。

 現場の慣習や慣例を理由に、現場での認識不足を原因に。仮にそれが本当の原因であり、問題であるならば、やはりそれは慣習や慣例に馴れ合い、不勉強であることを反省しなければならないはずで、堂々と胸を張って語ることではない。クレドを世界に誇り、他社よりも秀でていることを、優れたホスピタリティを、整った社員教育を、精神的な満足感とそれを提供する社員の充足感、これらを実践することでブランドを確立し、その上に成り立っている企業であるなら、むしろそれを恥じるべき。見てくれだけ高級にして、価格だけ一流にして、中身は三流とはどういうことか。

 信頼を裏切り、ブランドに胡坐をかき、そして顧客を欺き騙す。もし仮にこれが作為的でなかったとしても、会社の責任は意識無意識に関わらず、また実害がないことに関わらず、大きなものであることに違いは無い。謝罪をすることが第一であり、補償をすることが前提であり、どのような危険性があり、どうして安全かを説明する義務があり、どのように今後の改善を行うか指針を示す姿勢が肝心であり、何より誠意と真意はどこにあるのか見せなければいけない。

 今回の表記において、作為的なものではないという論拠は成り立たない。このような表記は、役員や幹部の無能から始まり、この無能を排除する機構すら崩壊している。それを抑えるべき管理職も現場も、その能力も危害も見当たらない。年々激化する競争とホテル事情から、安易にコスト削減を厳命され、ほかに打つべき手段を講じず、見て見ぬ振りをし、モラルハザードの低下を来たしている会社の体制と意識の表れだ。

 それは明らかに我々利用者や顧客を愚ろうし、馬鹿にしている。そして、従業員や同業者、全ての誇りを傷つけている。これは、単純な誤りなどではなく、偽装と詐欺でしかない。

 もしあえて誤表記である、認識不足であるというならば、そこまで低レベルの従業員であるのか。芝エビやイクラ、フレッシュジュースの見分けもつかず、鮮魚や生の意味も知らず、見分けもできないシェフやホテルマンが世の中にいるか?ばれたら開き直って浅はかな言い訳を連発する。

 ましてや一流と言われているんでしょ。でも、顧客にうそをついても良い、騙しても良い、見つからなければ良い、つまんない言い訳をする、そんな仕事に誇りを持って、上辺だけ整えていたとわけだから、それは三流というよりも亜流かド素人か、いやいやただの詐欺師か。

 ブランドと経験を信頼し、自分の体験と素晴らしいホスピタリティに感動し、心を信じた企業が、世の中に影響を与え、指導をし、手本になってきた企業が、信用と信頼こそ財産であった企業が、我々を裏切り、実は腹の底では顧客を馬鹿にして、平然と騙していた、これは耐えがたい屈辱であり、精神的な傷になる。
 
 今を壊しただけではなく、過去の想い出も、未来への期待も汚したことに対して、万死に値する、その位僕は腹が立っている。僕1人が抗議したところで、どれだけ意味があるかどうかは分からないが、このような小さな声が大事であることを、当事者にはぜひ思い出してもらいたい。失った信頼や我々の心を傷つけた犯罪は、自分たちが考える以上に大きいということを思い知ってほしい。今やこの企業名は、不快感しか感じなくなってしまった。

 不買運動とか、ボイコットとか、誹謗中傷とか、風評被害とか、そんなものは大っ嫌いだけど、独り怒りを持つだけで、その家族が、知人友人が、これが連鎖すればどうなるか。

 僕は、直接的な被害を受けたわけではないけど、信頼していた企業であり、利用していた施設であり、自分で選びぬいた結果がこれか、見る眼がなかったなあ。子供たちはどう思っているのだろう。子供と宿泊したときは、「立派なホテルだから自分たちも立派に振舞わないとね」と話し、「ここのスタッフは、おもてなしの心が素晴らしいね、見習おうね」と感心し、いろいろな事を見て感じ、感謝していた子供たちは。

 また時間が経てばうやむやにとか、現場が謝り続ければとか、誰かの首さえ切ればとか、そんな解決なんだろうけど、俺は忘れない。<カクスコ舞台中継「廊下は静かに」を流しながら> 

2013年10月21日午前0時半 天誅組3〜五條〜
 五條の街は、観光客も多いためか、活力を感じる街でした。適度に落ち着いていて、でも寂れていないというか。幹線道路沿いには、地方都市特有の大型店舗が立ち並ぶ中、でも商店街も負けていない、というような。

 もちろん、街と街の間は山と川のきれいな、そしてどこを見ても古墳かな、と思ってしまう小高い丘や以前耳にしたことがある名称が。そんな街の中に、特に江戸時代からの歴史を残した街道沿いに残る古い町家があります。

 特に新町通りという古い町家の通りに宿泊しました。旧家の離れを一軒借りなんですが、2階から吉野川の清流と吉野や熊野がよく見えます。明治〜大正期に建築された離れを改装した一軒家。江戸時代からの古い民家がそのまま残る、その町家の中に溶け込んでいます。周りには、一般の住居が大半を占めますが、飲食店や美容院、和菓子店、という生活を感じる商店と資料館や歴史を感じる建物が入り組んだ路地に立ち並ぶ、その間には川が縦横に走る江戸時代の栄えた商人の町を色濃く残す街並みです。

 江戸時代の日本橋界隈もそうですが、栄えた通りを想像するととても広い道を現代では考えてしまいますが、実際には車1台が通り抜けられる程度の道です。だから、情緒があり昔の息吹を感じられる街並みなのでしょうか。

 城下町、川、江戸時代の栄えた街、この条件が実は僕にはなぜかしっくりきます。東京生まれの東京育ちなのに、懐かしいというか、落ち着くというか、はまるというか。母の実家のある熊本の山鹿という街が実はまさにこれ。子供時代に夏休みを長く過ごしたからか、あるいは遺伝か、血なのか、今まで訪れた旅行先でも妻の実家の清水であったり、友人の住む愛媛の大洲であったり、有名どころでは仙台や会津であったり。

 家の中を行ったり来たり、古い家の細工の効いた欄間や窓に感心し、2階からの景色を楽しみ、庭に出てぶらぶら、景色の見える風呂に入ってゆったり。川を臨み、旧家や資料館、史跡やお店、邸宅などを見学しながら、街の人との出会いや会話を楽しみつつ、ぶらぶら歩くのがとても楽しくて。ずっとここにいてえ!いつも思っちゃいます。

 近くには、美味しい食事処もあり、いい感じのバーもあり、朝昼夜と景色の変わる街を散歩しながらお楽しみ。

 でも、帰京する前日から雨と風が強くなりだし、清流だった吉野川がこの夜から増水し始めて、深夜にダムの放流、一晩続く暴風雨、朝には濁流になっていました。

 で、古い町家なんで雨漏りとかがひどくて、この手当もあり結局朝早くに起床して、荷造りして情報集めて、近鉄線で名古屋から帰るつもりが、土砂崩れで復旧のめど立たずと。新幹線も、不通。羽田行の飛行機も夜まで欠航、復旧のめど立たず。名古屋や伊勢に向かう道路は閉鎖。京都は全面封鎖。その他高速道路もほぼ不通。

 まずは、レンタカーで中央高速を東京までと作戦変更。でも、ここまでの道路がアウトで却下。白浜空港もアウト。このまま居残れば、五條が危ないし、そこから北上する場所は全て危険。ということで、大阪に脱出を試みるということで、翌日の昼のJALを何とかおさえ、大阪のホテルをおさえ、病院に連絡して翌日の診療の手配。一泊して伊丹から帰京と決断。ここまで2時間。

 すると、消防車の避難勧告の放送、窓の外を見るとさらに濁流が土手まで迫り。でも、意外と街の方たちは冷静。あの枝が隠れてないから大丈夫!経験ってすごい。
 
 仲良くなった街の人たちに見送られながら、逃げるようで後ろ髪ひかれながら、自分の心配よりも皆さんがと思いながら、慌ただしく出発。道に溢れる小川を横目に、橋までかぶる水を突っ切り、避難勧告がスマートホンに続々と、通り過ぎるとこ通り過ぎるとこピンチの奈良の街を逃げ切りました。ちょっとテンションが上がったのは、被災した方には不謹慎でした。

 何とか近鉄線で大阪に向かえる駅まで到達し、そこでほっと一息。ここでは打って変わって、雨も降っていないし、台風自体がないような雰囲気、普通に連休を楽しんでいる姿にびっくり。でも、駅のそばの川は溢れてきていたよ!近鉄線でも、渡る川は濁流、溢れてるよー!

 で、無事大阪についてさらにびっくり。完全にピーカンで街行く人はこれまた普通の休日。新幹線の不通も知らない。ホテルの方はさすがにチェックアウトのお客様が帰れなくなったり、スタッフが出勤できなかったり、大変だった様子。でも、僕らの行程を聞いて皆さん優しくして頂きました。

 台風って、こうですよね。自然も恐ろしいけど、人の感覚も怖い。

 その後、五條の街が大丈夫だったと聞いて一安心。ただ、天誅組のイベントにみえていた方たちの町や村が被害にあわれたと聞きました。お悔やみ申し上げます。

 そんな時に動いて危ない、と忠告や叱られたのは帰京後。留まるという選択肢を思いもつかなかったのでただただ反省。

 で、ひとつ気付いたことが。実は、五條の街には注意報が出ていたけど、警報は全くありませんでした。ところが、数時間たって警報を超えて避難勧告が突然。出来れば、注意報や警報は何段階かに分けてもらえると動きやすいかなあ、そう思いました。

2013年9月28日午前3時半 第20回ご報告 募金ありがとうございました
 被災動物救援支援募金にご協力ありがとうございます。早く現地にて役立てて頂くために、9月27日付で20回目の寄付を行わせて頂きました。
 皆様には、快く募金をお引き受け頂き、心よりお礼申し上げます。
 
寄付団体:日本動物病院福祉協会(JAHA)
(寄付実施が早い団体を選びました。)

金額:12.798円(19回合計516.221円)

被災動物義援金:受付終了(計当院より80.000)

今後とも、よろしくお願い致します。

「一緒に頑張る、一緒に生きる。」

2013年9月28日午前1時半 天誅組2
 吉村さんに会いに奈良に向かうわけですが、実は調べてみると意外と奈良は遠い。中学生の修学旅行では、京都の宿からバスで移動であったため、全く土地勘がなく、ほぼ初めて訪れる土地。大阪または京都からレンタカーも考えましたが、奈良は渋滞が多いと聞いていて却下、それなら関西の雄近鉄の特急に乗るのを基本に検討。往路は、新幹線で京都に出て、近鉄で大和八木へ、正味4時間の旅行。ここからレンタカーで五條に向かうことに。復路は、近鉄特急の別の種類に乗車するために大和八木から名古屋に向かい、名古屋から新幹線に。

 いつものごとく徹夜のまま出発。最近は、ちょっと贅沢してタクシーを予約して送迎を利用。でもこれは、贅沢だけのためではなく自助努力。自分で電車で向かうとなると、ギリギリまで仕事をしてしまい、走って駅へ、そして新幹線に飛び乗る、という繰り返し。弁当がとビールが買えない、けど乗り遅れちゃう、というジレンマが。だけどお迎えがあると、嫌でも出発しますので。

 早朝の新幹線、しっかりと弁当とビールをしこみ乗車です。弁当屋さんがまだ5時代に関わらず混み合っていたのにびっくり。まだ、weekdayですが。発車前にすでに乾杯と弁当をすませ、いつもは夜中になる出発ですが、久しぶりの明るい車窓に恥ずかしながら大喜び。が、睡魔とビールのほろ酔いのため新横浜から京都までは爆睡。京都で近鉄特急に飛び乗り、一路奈良へ。大和八木駅で下車し、駅近くのレンタカーを借り、まずは近隣の最初の目的地、橿原神宮へ。

 氏神様の天祖神社さんと父母の習慣であった穴八幡神宮には、いつもお参りやお札を頂きに行ったり、しっかりお世話になっています。が、元々、他力本願や拝金主義の神社仏閣には興味がありません。本当は嫌いと書きたいけど、あれ、こういうことを書いてはいけないのかな、誰かに叱られたりするんだろうか。あと、歴史的に名を遺した人を神格化するのも嫌。だって、人としては認めるけど、自分にとっては神様ではないよなあって。祀るのはいいけど、立派な先人として尊敬できるけど、やっぱり神様ではないかと。

 あの、決して宗教的な話ではなく、批判でもありません、自分の考えや信ずることの1つですので、何卒ご勘弁を。ただ、神社には政争や策謀によって都を追放された官人や公家の魂を治めるために、あるいは災害や身に降りかかる不幸を彼らのいわゆる怨念や恨みと信じ、または迷信などを封じるために建立されたものもあるため、これって結局人のわがままから来たものでしょう。ということは、実は神様ではなく神格化した人の方が信用できない、と。

 こんな想いを吹き飛ばしたのが、橿原神宮。八咫烏でも有名なこの神社に、奥さんは歴史に興味を持ち、僕は大和行幸の神武天皇陵だからという理由で訪れた場所。サッカー日本代表がお参りすることでも有名な所ですが、なんというか人々に大事にされていることが感じられる土地で、宮家を守護した歴史からか、静謐というか、「静」のなかに凛としたものを感じ思わず襟を正してしまう、そんな印象を持ちました。「勝つ」というお守りにも見られるように強さも感じるこの神社は、本当に訪れて良かったと思える神社でした。

 パワースポットって弱っている人が助けを乞うために行くところではなく、何とかやってやろうって人が行って初めてパワースポットだと思うんです。だけど、そういうのにも頼りたくない天邪鬼な僕ですが、今回の橿原神宮、この空間にいるだけで力をもらえる、違うな自分の背筋が伸びる、あるいは気力が充実して漲ってくる、そんな感じを受けました。これは、以前訪れた伊勢神宮でも感じました。

 車を走らせていると、周りには小高い丘や小山があり、これらが古墳や塚であることが多く、史跡と共存しているんだと思いました。また、その雰囲気が優しい感じ、対して京都は厳しい感じ、言葉が貧困だなあ、もっと良い表現をしたいのですが、ここは単純な言葉が良いかなあ。この後は、大化の改新が実際に行われた飛鳥板蓋宮跡、中大兄皇子と中臣鎌足が満を持した場所で、蘇我入鹿の首塚のある飛鳥寺など明日香村を訪れ、高松塚古墳や石舞台古墳などの飛鳥古墳群を観て周りました。

 ここから五條に向かうわけですが、ここで一波乱。ナビに任せて五條に向かったのですが、どうもこの指示が裏道の草深い山道、それもところどころ退避場所があるような一車線しかない道が続き、一直線の道が3度も4度も急勾配の上り下りを繰り返し、前が見えず見通しが悪く、車とは一台も行き会わず、切通しの道だったり。山道や難所に慣れている僕も「うひょー」と言いながら乗り越えていくような。帰りはどうしようと不安になってしまうような。「ああ、だから天誅組も討伐軍も苦労したんだな」と実感させて頂きました(笑)。

 本来の国道に合流した瞬間、もう2度とこの道は・・・、本音でした。さあ、五條に到着です。

 結論、奈良は計画した時は遠く感じたけど、来てみたら近い。だけど、五條は遠い。

2013年9月24日午前3時半 天誅組義挙
 先週、お休みを頂いて奈良に行ってきました。目的は、天誅組150周年式典にご招待を受けたからです。多分、天誅組と聞いて「そうか」と思った方は相当マニアックな歴史好き!明治維新後に権力を手中にした長州藩の事情から、あるいは太平洋戦争以来の思想や教育の都合から、彼らの功績に対して正当な評価が今まで行われずに、歴史に埋もれてしまい、まだまだ無名と言っていい草莽の志士たちが起こした革命の部隊の名称です。今では、「維新の魁」として評価が少しずつなされていますが、これからもっと評価をしてもらおう、という意味もあっての活動です。

 僕が天誅組の存在を知ったのは、「竜馬がゆく」を読んだ中学生の頃。後に、土佐四天王と呼ばれた土佐藩で維新の魁となった4名(武市半平太、吉村寅太郎、坂本龍馬、中岡慎太郎)の内の1人吉村寅太郎さんがその天誅組の総裁になったことから興味を持ちました。龍馬の脱藩の決意をもたらしたのも寅太郎の脱藩が関係し、その後の龍馬の考え方に一石を投じたのも寅太郎の義挙です。

 寅太郎は、幼くして土佐の山深い津野村の庄屋業をつぎ、若くしてその志と指導力が評価されていた人物です。が、村1つを考えた時、どんなに苦労をしても報われない村人たちを思った時、彼は今の世を変えなければと立ち上がりました。長州や薩摩は、土佐ほど身分制度が厳しくなく、若くても、下級武士でも能力主義で抜擢されますが、土佐は身分制度と呼べるものではないくらい差別がひどく、どれだけ努力をしても、結果を残しても寅太郎が評価されることはなく、藩政に関われるものではありませんでした。

 日本を考えずに徳川家を守ることを考える幕府には、日本の政冶を治める資格はなく、そのため、天皇を中心とした政治の新体制を作ろうというのが勤王主義。ただ、この主義にもいろいろな主張があり、いろいろな目論見があり、いろいろな策略があり、全てが純粋ではありませんでした。

 そこで、勤王を掲げた寅太郎は、草莽の志の個を募って立てば、たとえ捨石であろうと世に波を起こせるであろうと脱藩する訳です。これに対して、武市半平太は、土佐勤王党を結成し一藩勤王を目指し、理想の前にはどのような手段も選ばないという非常手段にで、策略陰謀で一藩勤王を成し遂げます。結果的に、八一八の政変や禁門の変により、寅太郎は文字通り天誅組の義挙により捨石となり討ち死に、半平太も藩の裏切りにあい切腹、土佐藩の面々は大多数がここで死んでいきます。

 彼は、攘夷の決行を勅許した孝明天皇の大和行幸を1つのきっかけとし、この天皇の意に背く幕府(この攘夷や勅許、幕府の真意もいろいろあり、個々には書ききれませんので、あくまで天誅組の志を中心とした説で)を朝敵と考え、ここから倒幕を始めるという革命を企図します。朝敵となれば諸藩は当然味方となり、京都から大和への援軍も予定され、一気に革命政府を樹立するため、幕府直轄領の五條を拠点に置くこととします。この五條は、神武天皇陵に近く、また戦争となれば土地の利があり、さらに南北朝で南朝が置かれた歴史から勤王の志の高い賀名生や吉野、また勤王活動を評価され唯一諸藩以外で禁裏守護を務める十津川郷から近い、このような多種の利点がある地です。

 ここでかれらは、五條代官所を襲撃しこれを退け、新政府を樹立、この地域の圧政を正します。ここで、天誅組と名乗る訳です。が、京都では、勤王派が公武合体派の策謀に失脚し、大規模な政変が起こったため、行幸は中止、天誅組も逆賊と評され、彼らの志とは関係なく、各藩の討伐や仲間の離散により、瓦解していくわけです。この天誅組の義挙から150年たったのが今年なんです。
 
 十数年前、僕が幕末の歴史について質問させて頂いた方が、実は若くして天誅組の研究家であり、それ以来お付き合いさせて頂いている関係から、この式典にご招待を受けた訳ですが、実は友人たちと作った勉強会である志成会という会の名称は、この方に命名して頂いたものです。その関係で、天誅組保存伝承・顕彰推進協議会にも参加させて頂いています。

 ちなみに、うちの代々の猫の故半平太と現役の寅太郎はもちろん土佐四天王から、闘病中の乙女は龍馬の姉さん、それから以前保護してもらわれていった加尾ちゃんや田鶴さんは龍馬の恋人、うちの長男次男の名前も龍馬と慎太郎から頂いています。
  
 「吉野山 風に乱るる紅葉葉は 我が撃つ太刀の 血煙とみよ」 寅太郎の辞世の句です。奇しくも今日は、西南戦争で西郷さんが自決した日でもありますね。

 式典や五條の街、台風直撃の話は、また次回に。

2013年9月11日午前4時 更新が遅れ気味
 オリンピックの東京開催が決まりました。素直にうれしい、そして誘致に頑張った方たちにお礼と労いの言葉をかけたい。そして石原さん、自分のお手柄みたいに話しているけど、こういうとこ控えめならなあと思いつつ、でも確かにこの無謀な思い付きをやりきった石原さんはすごいと思います。

 マスコミは石原さんを揶揄しているけど、それこそマスコミは以前はオリンピック誘致に否定的で、特に石原さんバッシングのネタにしていたし、堂々と反対していたのに、この掌返しはなんだ?いや、いつものことか。で、どうせオリンピック景気に群がって利用するんでしょ、マスコミの皆さんは。

 せめて、石原さんの評価するべきところは評価して、その上で批判して、で、オリンピック誘致の是非を問うて説いて、自分たちの視野の狭さや見通しの甘さ、コロコロ変わる態度や報道の仕方をしっかり反省しろ。その上で、一緒に喜んで、稼ぐのならまあ許してあげる。

 元々東京は、既存の施設を使用できること、インフラ整備が行き届いていること、競技場が近いことなど、肥大化し商業化して批判を受けた一時期のオリンピックと違って、コンパクトなオリンピックを標榜するIOCには評価が高く、有利と言われていました。さらに、経済的な優位や技術国であること、治安の良さも利点とされていました。

 しかし、国民や都民の盛り上がりに欠けることや原発の汚染水の問題に、不信感もぬぐえませんでした。特に原発問題は、その原因も対処法も明らかにされないまま再稼働が議論されたり、汚染水問題を軽視し情報の不足を招いたり、国の対応が遅れたり、今の事態は予測されていたという指摘があったり・・・、いつもながらのずさんさが露呈していました。

 今回の決め手になったのは、災害からの復興や勤勉かつ親切な国民性、原発問題の解決を国が約束したことと日本の徹底したアンチドーピングの姿勢ではないでしょうか。

 ということは、全てこれからの課題であり、しかも国全体が約束したということは、これは即実行実践、これしかありません。

 この決定には、賛否両論〜まだ復興できていない、復興を謳い文句にしすぎている、今の日本の体制で可能かどうか〜でも僕は1つのきっかけになるのではないかと思っています。

 50年前の東京オリンピックは、敗戦からの復興と平和を世界に知らせたいという想いからでした。さらに、世界的な高度成長を誇示した高速道路や新幹線の建設、街の近代化など日本の産業力、特に技術力を評価されました。

 でも今回は違います。国民の積極参加、ボランティア精神、海外からの旅行者への対応、治安維持、自然災害への準備など、インフラや技術力ではなく、人間的な成熟が求められているのではないかと思います。

 お祭り的に深夜から早朝のテレビ番組を楽しんでしまいましたが、プレゼンテーションが目先の誘致だけを考えたものではなく、震災からの復興を謳い文句に終わらせるのではなく、原発問題を覆い隠すだけでなく、より良いオリンピックを開催するためのことであったと、日本人が成長することに役立ったと、自信を持って言えるだけのことを期待しています。僕らは、国に裏切られることに慣れている、あるいは諦めているけど、国に失望しているけど、でも小さな希望は持っている。でも、世界を裏切るようなことはしてほしくない、世界に失望してほしくない。

 追伸、レスリングは元々競技からはずすべきではなかった、オリンピックの伝統競技だから。例え協会の体制や競技に問題があるなら、自制して改善させる努力をするべきだったと思います。オリンピックから除外することをショック療法のように使うべきではない。そのうえで、ああ、何で野球は復活しないの?日本開催で可能性が出てきたと談話があったけど、信じます!<「華麗なるペテン師たち」を流しながら>

2013年8月23日午前3時半 気持ちがささくれてる?
 今日は、高齢の子の手術が無事終わり、ただ今看護にお付き合い中。気分がいいのにお酒が飲めない、辛いなあ。で、楽しい話がかけないんだけど。

 ある地域の教育委員会が、「はだしのゲン」作品中の暴力描写が「子どもの発達上悪影響を及ぼす」との理由で、市内の小中学校に閲覧制限と貸し出しをやめるよう要請したそうです。

 また、大人の勝手な過保護、そう思ってしまいます。あるいは、子供のことを考えないただの事なかれ。なんか問題が起きたら困るから言い逃れ。クレームが恐くて予防線。子供のことを考えず、大人の理屈で大人の理論で自称教育者や意味不明の専門家、子供想いと思い込んでいる自己中の親・・・が勝手に議論をして、自分らに満足のいく結論を出す。子供に満足のいくものではない答え。

 ここまでどれだけ失敗してきたのか。このような規制が意味があるのか。そもそも子供の根底まで影響するような作品ってあり得るのか。むしろ、もし影響を受けるなら、そのようなメディアに影響されてしまう子供ってどうなのか。あるいは、そのような状況を子供としっかりと向き合って大人が対応しているのか。

 それが、事実であっても耳をふさぎ、目隠しをする意味があるのか。歴史を知らず、国を理解せず、先達を見ず、また同じ愚を犯すのか。子供はそんなに馬鹿じゃないし、自分で考える力も持っています。ただ、はっきりとこういうものだと解説できる大人傍らにおらず、今は子供がどう受け止めているか理解できず、見守ることすら叶わず、考えさせる余裕がなく、堂々と論ずる機会がなく、うわべの表現や評価だけを気にして、根本から側面まで、全てを経験し考え、理解させようと努力する姿勢がない。

 もちろん、戦争時の残虐行為や従軍慰安婦問題など、いろいろな意見があります。例えば、どの国でも戦争時には行われていること、あるいは国全体ではなく一部のもの、いや日本はドイツやソ連のように国の方針では行っていない、むしろ全く歴史的に事実無根、いやいや実際に被害者がいる、はたまた責任を負うべき・・・、異論百出で正直僕も何を信じたら良いのか、正しい調査と評価、発表がなされず、いまだに日本は国の中ですら何を認め何を思うかはっきりとさせておらず、これを世界にアナウンスもしていない。これも大人の事情でうやむやにしてきたことであり、やはりしわ寄せは子供にかかる。

 今回の問題には、過激な内容を子供がどう受け止めるか不安であるという点と、その内容が正しく歴史を伝えているかという危惧の点、この二点に分かれ、絡み合っていろいろな思惑が動いている様な気がします。ただ、例え残酷な表現や性的な描写があったとしても、それが過剰に演出されたものではなく、事実に反しない物であれば、知らなければ、あるいは教えなければいけないことであり、しかしその上で一緒に考え、議論されるべきことだと思います。例えば国としてはこんなことを指示していないとするならば、その点をしっかりと教えるべきであり、しかし国の方針が現場で守られないのは良くあることで、作者が実際に体験しているならば、その事象はあった可能性があることを認めつつ、その時その場所では残念だが起きてしまっていたことを真摯に受け止め、でもそれは真意ではなかったこと、しかし一時の一部の誤りでも、正しい対処をするべきことを伝えなければいけないでしょう。そこまで含めて、大人の子の苦悩も含めて、全てを子供たちに伝え、教え、触れ、考え、話す機会を作らなければいけないと思います。

 その部分を手っ取り早く処理するなら、閲覧制限ではなく閲覧禁止にすれば解決ですが、根本的な歴史解釈や教育の解決には全く役に立っていない。しかし、やはり皆が皆横一律でそれらの判断が出来る訳ではありませんし、大人が全てに対応出来るわけでもありません。そこを考えると、何でも制限するという、あるいは事なかれや逃げの対応は間違っていると思うし、何でも子供に影響するという短絡的な考えには大反対。いろいろな刺激や事象に触れて子供は成長するものだし、そのどれが正しくてどれが誤っているかなんて、人んは判断できないはず。それらを規制するには、根拠も責任の所在も明確ではなさすぎる。

 ただ、そこに問題が起きる可能性があるなら、それこそ周りの大人や家庭が対処しなければいけないはず。でも、思想的ではなく、現実的に大人のフォローが足りないならば、自由閲覧の制限は必要なのかとも思います。そばに寄り添うことが出来ないのなら、制限を設けてその代り閲覧希望があれば、しっかりと向き合い寄り添うことをすればよい訳ですし、場合によっては年齢などで閲覧の自由度を変えるなど、そういう道もあるはずです。ただし、その行動に至るまでの経緯や考え方を皆に説明し周知し、根拠を示し、対策を練り、同意を得てから行うのは、当たり前のことだと思います。ここまでやったとしても、とてつもない譲歩ですから、今のやり方と理由には納得はいかないのも当たり前です。

 というか、そもそもこれらを判断する大人がこの体たらくですから、大人だって閲覧制限必要な方が多いんじゃないですか?って言いたくなっちゃう。

 僕は、両親が仕事にかまけて放任でしたから、多分理念などとは関係なく、幼少時から大人が観るドラマや映画を観てきました。Hな本だって多分他の子たちより早く手に取ってました。アクション映画が好きですし、ゾンビやドラキュラの映画が大好き。もし僕が若くして犯罪を犯していたら、映画のコレクションを見た有識者は、そこに理由を求めたことでしょう。あるいは家庭環境が原因だ!なんて。

 そうそう、僕は小説を書くのが好きで、大学時代まではちょこちょこ未発表ですが書いていました。その中には、この国を変えるには、永田町の官庁街を次々に襲撃して、その混乱の中に警視庁を破壊し、国会を爆破して、議員を人質に、NHKを占拠して呼びかけ、自衛隊のクーデターを吸収する、そんな絵空事のものもあります。これ読まれたら、右だ左だ大騒ぎでしょうね(笑)。

 でも、今の僕の人としての根幹は、あるいは獣医師としての芯は、この育ちで培われたもので、自分で限定せず、いろいろなことを咀嚼し、嚥下し、消化して吸収したから出来上がったものだと思います。そこには、自分の意志の力が大きいと思うし、判断力を養う努力や結果や行動を示して大人に口出しさせない戦いもありました。だけど、家庭や親族、友人、周りの大人、先生、先輩・・・、読んだ本、聞いた話、観た映像、聴いた音楽、見たもの、触れたもの、体験したこと、自分の発した言葉や書いた文章・・・、全ての影響を受け、関わりのある方全てに見守られ、支えられ、その結果だと思います。

 影響を恐れるのではなく、ストレスを与えないのではなく、影響を受けてどう育つか、ストレスを受けてどう成長するか、それを見守るのが教育だと思います。だから、基本は閲覧制限にはやっぱり反対です。

 作家の乙武さんが、「俺も松江市だと、『容姿が過激で、子どもが見るには不適切』とモザイクかけられちゃうのかな」と発言しましたが、これこそ真理だと思いました。平素は、乙武さんの発言には頷くこともあれば、おかしいと思うこともあるし、ちょっと上目線じゃねえ?みたいなことも多いけど、彼の発言は他の方に比べていろんな衣がついて解釈されるから、そこは彼自身苦しい所だと思います。あ、話がずれちゃった、またこの話は別の時に。<「クローザー」を流しながら>

2013年8月22日午前2時半 詐欺
 夏らしく楽しい話を、お祭りの話とか、キャンプの話とか。でも、今見たポストとFaxで気が変わっちゃいました。

 何でかというと、相も変わらず嘘ばっかりの、いや詐欺まがいのお誘いで。なんとポストに入っていたのは、「僕が日本の名獣医師16名」に選ばれて、その本を出版したいって通知。

 いえいえ、これには裏のからくりがあって、60万円出すとその本に書いて頂けるというもの。はい、昔からある出版詐欺まがいの「名医」も嘘なら「選ばれた」も嘘の誘い。はい、そうです新聞の一面によくある出版物の宣伝、「名医百選」とか「これだけで治る」とか。ああいうのもほとんどこんなからくりで、取材費請求のあるものや自費出版のもの。騙されてはいけません。しっかりとお誘いの文句は「これで業績アップ」とか「集客200%増」なんて堂々と書いていますから。

 だから、本に載るのなんて、一部を除いて全然信用にもならないし、凄いことでもない、ということ。テレビも同じ、マスコミはみんな同じ。出資者とスポンサーが大事なだけ。

 でもね、こういうの頭にくんだよね、しかもこういうのに乗っちゃう馬鹿者も多いし、実際にだまくらかして儲けている奴〜出版業界や獣医業界〜も多いし。本当にうんざりです。でもね、こういう人たちが儲かるってことは、厳しい言い方をすれば騙されている人にもちょこっと責任があります、だって騙される方が悪い人たちを養っているのと同じだから。

 もちろん、加害者がいなければ被害者はいないわけで、騙す奴が一番悪いんだけど、でも自分の眼を、耳を、気持ちを、考え方を、勘を、信じてほしいと思います。生命の関わることなら、少しだけ勉強してほしい。でも、これはずるいお願いか、我々がしっかりしていないんだから。

 最近、獣医業界で流行なのが「経営セミナー」。でも、これがまたろくでもないもので、獣医療の技術や知識、心、理念、努力・・・が欠けているから動物病院の経営がうまくいってないのに、そういう教育は全くせずに、小手先の、目先の、間違った「お金稼ぎ」を教えている。そしてそれをありがたがって、そしてその結果を自慢して、下衆の集まりです。

 そしてFax。相も変わらずステマの誘い。クチコミサイトにいい評価をたくさん書きますっていういつもの奴。もういい加減にしろよな。

 だから、ここに会社名書いちゃおうかな、あれこういうのっていけないのかな。現代書林とCNN、いい加減にしろよな。セミナーも含めて、こういうこと書いてるとまた叱られるのかな。<「ぼくたちと駐在さんの700日戦争」を流しながら>

 追、ぜひ夏に観てほしい映画です。

2013年8月9日午前3時 狂犬病
 7月末から怒涛の1か月、何とか乗り切りました。この間、スタッフの朝帰り、何度あったでしょうか。5日連続の徹夜、きつかった。症状が安定した方、病気が治癒した方、残念ながらお亡くなりになられた方。いろいろなことがありました。HPを更新する余力がなく、更新しようにもPCがおかしく、こんなに更新できないことは今までなかったかな。

 今日からお盆休みを頂きます、よろしくお願いいたします。なので、今日は少しハードな話。

 狂犬病清浄国である台湾で、狂犬病の感染が起こりました。それも人に、です。
   
 「予防接種なんてしなくていい」平気で言い放つ獣医師や動物業界の業者がいます。「狂犬病予防接種の制度なんてもういらない」無知な役人がいます。「もう日本にはない病気だし、注射するのはかわいそう」履き違えた飼い主さんがいます。歴史を学ばず、反省も意識改革もせず、先人に敬意を表さず、病気を理解せず、現状を理解しない。
   
 僕は、大学で狂犬病をほとんど学んでいません(あれ?授業さぼってたのかな)。獣医師になっても狂犬病についての情報は限られています。そして、飼い主さん、官庁、行政、社会、獣医師の狂犬病への意識の低さに愕然としました。

 狂犬病の歴史を語り継がず、予防接種制度を利権に変えてしまい、当初の意義を忘れ、安穏とした現状に座し、視野を広げようとしない。もちろん、こんな人たちばかりではない、一部の人たちでしかないと信じたい、でもこういう人たちが目立ってしまう。そして、世の中に社会に害を及ぼす。

 以下は、6年前に書いた原稿。台湾の出来事を対岸の火事とはせずに、今そこにある危機と感じてほしい。

 年々犬の数は増えているのに、狂犬病予防接種を受ける方の数が減っているのはご存知ですか?清浄国であるということへの慢心が、国と不勉強な獣医師や動物の関係者の怠慢が引き起こし、飼い主さんの意識の低さがそこに火をつけました。そして、啓蒙の不徹底、情報不足、飼い主さんのモラルの低さ、動物福祉、問題はいろいろあります。

 まず、日本が清浄国になるために、ぼくらの先達の犠牲があります。自身の危険を顧みずに撲滅に尽力し、中には生命を落とした方、感染や治療により後遺症に苦しんだ方がいらっしゃる事を忘れてはいけません。そして、島国という立地が防疫を行うには適していました。逆に言えば、今は島国だから助かっているだけ、とも言えます。

 現在の日本の接種率では、実は清浄国とは言えない状況になっています。70%をとうに下回った接種率は、もし国内に感染が起こった場合、次々に感染が広がる事を防ぐ事ができないという結果を招くものなのです。

 狂犬病の検疫体制は強化されましたが、この病気は犬だけではなく猫やフェレット、狐など様々な動物が感染し、人の感染源となります。最近増えている動物の輸入、密入国や密輸入には、いつでも日本国内に感染の危険が起こっても不思議は無いとも言えます。

 また、知識や情報の不足は、感染がひとたび起こればパニックを引き起こす可能性が高く、無責任な飼い主さんや業者さん、不幸な動物や飼い主さんがさらに増える可能性があります。

 狂犬病予防法は、人を助けるための法律であり、動物を救うためのものではありません。体調不良や病気も、実際にはワクチン接種をやめる理由にはなりません。なぜなら、動物の身体を考慮しての法律ではなく、あくまで「人のための」ワクチンだからです。もちろん、人の生命や生活を守るためには、社会のためには、動物の犠牲はやむを得ないというのが、現況では正しい考えでしょう。鳥インフルエンザの例でも分かる通りです。

 でも、僕らは動物を守りたい、家族を守りたい。これらの事が、予防接種年一回で防ぐ事ができます。日本のためとは言いません、おうちの愛犬のためにも一度考えてみてください。

 質問:日本にはもうない病気だから安心でしょ?
 答え:日本に狂犬病の発生がないのは、以前に病気の撲滅に尽力したからです。当時の国の機関と飼い主さん方、そして獣医師の意識の向上と努力、そして尊い犠牲によるものです。また、現在発生がないのは、単純に海に囲まれた島国だからです。現在、日本は純粋な意味での狂犬病清浄国ではなく、予防に関しての努力はほぼ行われていないも同然であり、国も飼い主さんも我々獣医師の一部も正しい知識も、危険性の意識も持ち合わせていません。現状の日本では、いつ狂犬病の発生があってもおかしくありません。

 質問:検疫がしっかりしているのに発生するの?予防接種をしているから大丈夫でしょう?
 答え:検疫の行き届かない動物の輸入、密入国や密輸、書類の偽造、偶然の侵入など狂犬病が発生する可能性は多々あります。確かに予防接種を受けていれば、感染することはありません。が、予防接種率が低いと感染が蔓延する可能性が高くなり、人への危険性はかなり高くなります。一般的に接種率が70%以上であることが必要ですが、日本での接種率は30%〜高くても40%しかなく、特に東京では30%以下になっています。これが、清浄国と言えない理由です。

 質問:狂犬病になるとどうして困るの?
 答え:国の定める法定伝染病に分類される病気で、この病気が疑われる場合は診断や隔離を急ぐ事になり、国への報告義務もあり、社会全体で対処しなければいけない病気の一つです。まず、犬は病気で苦しむ事になり、死の転帰を迎えます。病気が診断された犬は、殺処分となります。人の感染はその犬から起こることがほとんどで、正しい処置を施さなければ、死の転帰を迎えます。また、昨今の風潮を考えた場合、風聞被害も考えられ動物の飼育自体が危ぶまれる事態も考えられます。

 質問:老齢だから、外出しないからもう必要ないでしょう?
 答え:確かに、体調に問題がある場合や疾患を呈している場合、予防接種が身体に与える影響が大きいと思われる場合は、接種は行わないほうが良いこともあります。その場合は、獣医師の診断を仰ぎ予防接種猶予証明書にて手続きを行う事になりますが、法的には仮に動物の身体に問題が起ころうと、接種が義務付けられています。この場合、動物の身体を守るか、法と防疫を守るかは、非常に難しい選択となり、接種しない場合は法的措置を受ける可能性も考えつつ、予防接種を行っていない事を踏まえた生活が必要になります。体調などに問題がなければ、老齢は予防接種を行わない理由にはなりません。また、老齢であるからこそ抵抗力の低下を考え接種がより必要とも考えられます。もちろん、犬と絶対に接触しないという保証もありませんので、外出をしないことも理由にはなりません。

 質問:予防接種は必要ですか?
 答え:絶対に必要です。厳しい言い方をすれば、接種をするつもりがなければ犬を飼う資格はありません、とも言えるでしょう。日本の平和ボケは世界の常識ですが、狂犬病についても同様に評価されています。なぜなら、今でも世界中で撲滅できていない病気であり、アジアだけでも毎年50人以上が感染して死亡しています。数年前に、旅行者が海外で感染して帰国後発症したケースが2例続いて、注目されました。

 獣医師の中には狂犬病が流行した場合転職すると公言してはばからない者もいます。なぜなら、狂犬病罹患動物と接触することは常時生命の危険が伴うからです。また、獣医師の警告も無視して接種をしなかったような方たちを、生命を賭して守る気概が持てるか、そう極論されます。確かに、この考え方は無責任なものでありますが、心情的には分からない話ではありません。

 当院の院長は体験者であり、犠牲者を数多く知っており、もう二度と経験したくないと言っています。しかし、そこで我々は逃げ出すわけにはいきません。やはり同じ過ちを繰り返さないように、このような啓蒙はもっとどんどん行われるべきだと思います。

 これには、獣医師や国の機関の怠慢も原因であり、飼い主さんや業者さんの動物への考え方にも問題があります。平気で接種は必要ないと嘘を公言する者も恥ずかしながら驚くほど多くいます。問題が起こらないと考えも動きもしない国、動物福祉をしっかりと考えない飼い主さんや業者さん、その中で、獣医師が負う部分も大きく、例えば、フィラリア症予防前の血液検査の不徹底やワクチン接種前の詳しい問診や説明、身体検査の省略など、怠慢以外に理由がない悪質な獣医療も後を絶ちません。ちょっとの努力と正しい対処で出来る、なんでもないことなのに、です。四者四様、義務と責任を果たさず、逃げているだけ。

 人の怠慢で不幸になる動物に、少しの努力で助けられる動物の死の多さに、いつも心を痛めます。

2013年8月7日午前2時半 第19回ご報告 募金ありがとうございました
 被災動物救援支援募金にご協力ありがとうございます。早く現地にて役立てて頂くために、7月26日付で19回目の寄付を行わせて頂きました。
 皆様には、快く募金をお引き受け頂き、心よりお礼申し上げます。
 
寄付団体:日本動物病院福祉協会(JAHA)
(寄付実施が早い団体を選びました。)

金額:18.293円(19回合計503.423円)

被災動物義援金:受付終了(計当院より80.000)

今後とも、よろしくお願い致します。

「一緒に頑張る、一緒に生きる。」

2013年7月17日午前2時 正論
 以前に、正論を語ることが大切、正論が通用しない世の中や揶揄される世間こそおかしい、そう書いたことがあります。この正論というのは、誰でも知っていることで常識的なことや一般論という意味での正論ではなく、独自の意見として出たものでありながら、正しく真っ当な意見という意味です。しかもその正論とは、空論ではなく自身で実践しているからこその正論であり、その問題を解決できる論であり策であることが重要で、役に立たず、しかも口先だけのものでは意味がありません。

 実践できておらず、あるいはしていないにもかかわらず、または問題提議にもならず、解決に至る訳でもない正論は、「正論こそ役に立たない」と言われてしまっても当然だと思います。

 ということは、正論を語ることよりも、正論を実践し、物事を正論で解決し、正論によって問題提議をする、これこそ正論の正しい理解だと思います。
 
 てな感じのことを、キャンプ中(すみません、また富士山に行ってました)にボーッと空を見ながら考えていました。

じゃあ、正義ってどうなんだろう。次に思ったのはこの問題。とかく自分の正義を振りかざしたくなる人が多い昨今、あるいは自分で自意識過剰になることは何とも思わないけど、他人が自意識過剰になることには過敏な人たち?が多い中、正義を語るのってすごく難しい。

 実際僕も、正義を意識して、語って、行動してということが多い人間ですが、いつも思うのは「今のは正しかったのか?」とか「他人にとっては正義だったのか」ということ。特に難しいのは、「獣医療としての正義」とか「動物福祉での正義」まで考えなければいけないとなると、それこそ正義っていろいろなんだよなあと、そう役に立たない正論を吐いてしまいます。

 結局は、研鑽を続け、自身を高めつつ意識も高く持ち、自分の芯をぶらさずに貫き通すしかないのか、ということが解決策と今は思っています。僕の好きな言葉に、「正義の無い力は暴力、力のない正義は無力」という言葉があります。この言葉の出自は記憶に残っていないのですが、多分正義の女神ユースティティア(Justiceの語源)から作られてものでしょう。

 この女神は、普通目隠しをされていて、これは目に見えるものに左右されずに判断することを意味しています。手にする天秤は正邪を判断する正義を表し、逆の手に持つ剣は力を表しています。この像は、よく司法の公正を表す像として使われています。

 が、この目隠しは逆の意味にとられることもあり、目隠しのない像をして、視野を広げ、全体を見渡すことで公正な判断を下すと解釈されたり、目隠しこそ法の盲目を指し、この目隠しによって正邪の判断や公正な決断を邪魔しているとも言われます。また、正義とは目隠しした女神の取り合いであるとした説もあります。

 正義の女神の解釈すら、見る者、聴く者、感じる者、時代や思想によって変わるわけです。正義って、語ることすら難しいんですよね。

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